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生と死を考える講座 (講師:元日航職員で墜落事故遺族担当をされていた方)

2007年12月の私のブログ記事からの転載(加筆修正あり)です。深く考えさせられ、関連図書をいくつか手に入れたにもかかわらず、いまだに積読。noteを機に読んで、この投稿に後日つけたそうと思います。

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元日航職員で遺族担当をされていた方のお話でした。

あの事故後、遺族1家族につき、日航職員1人が担当したそうです。約2万人の職員のうち、1,000人を超える職員が遺族担当を含む事故の後処理にあてられたとのことでした。そのうちの1人が今回の講師で、遺族とのやり取りの中で、いろいろ思わされたのでしょう、今ではホスピスでのボランティアなどもなさっているそうです。

また、担当したご遺族とは今も交流が続いているそうです。

墜落現場は筆舌に尽くしがたいものだったと思います。
五体が一応揃っていた遺体は177体で、他の遺体はすべて離断され2065の部分になって収容。日本人1名、米国人1名は部分遺体さえ判明しなかったとのこと。

事故で亡くなった520人の他に、墜落現場へ登山中の遺族が事故死したり、遺族や日航職員、飛行機の検査担当者などが自殺、また、事故処理に当たった方々の過労死など、多くの犠牲者が出ていたことを聞いて驚きました。過労死された方の中には、検死や遺体確認の担当をされた当時の群馬県医師会長と副会長、および歯科医師2名も含まれていて、遺体確認がどれだけ困難で大変な作業だったかを物語っています。

外国人の犠牲者も22人いたわけですが、遺体に対する考え方に文化の違いを感じたとも、講師は話していました。

外国人の遺族は、「事故現場を見れば死んだことに間違いはなく、魂は神のもとに帰ったのだから、遺体はそこに残ったままでいい、見つからなくてもいい」と言う遺族がほとんどだったとのこと。

反面、日本人の遺族は、「手がなくてあの世でどうやってご飯を食べるんだ、足がなくてどうやって歩くんだと、手を返してくれ、足を返してくれ」と言われる方々がたくさんいたそうです。

遺族たちは大切な家族を失っただけでなく、補償金に対する世間の目や、補償金の分配についての遺族間での争いなど、苦しみが絶えなかったことも知りました。

遺族だけでなく、事故処理に当たった人たちも大いに傷つき、その人生や考え方さえも変える衝撃的な事故であったことが分かる事例をいくつかお聞きしましたが、その一つとして、事故から15年も経った2000年に事故当時捜査や救出に携わった警視庁OBたちが、犠牲者520名全員の名前を刻んだ慰霊碑を建立したことをここに紹介しておきたいと思います。

客室乗務員が最後まで冷静に任務を果たしたことも、乗客の遺書やボイスレコーダーから分かるそうで、機内放送を担当していた客室乗務員の手帳には不時着した際のアナウンスの文章が日本語と英語でメモされており、そこにはプライベートな遺志などは一切なかったそうです。

私なら、仕事中であっても、家族に手紙を書いたりしそうです。

遺族の中には、この事故が原因で自殺したり、離婚したりした方々もいるそうですが、多くの方は、故人の命を社会的活動の中に生かしたいという思いになられるようで、夫を亡くした方々の多くが事業を始めたり、いのちの電話のボランティアをなさったりしていると聞きました。

事務的になってしまいそうな事故処理ですが、仕事として関わった警官や日航職員が、遺族と家族ぐるみで交流するようになっていった話なども聞きました。

この事故で奇跡的に4人の生存者がいました。生き残ったために経験した苦労もたくさんあったことと思います。川上慶子さんとは私は同じ歳でした。12歳だった彼女はその後看護師となって、阪神淡路大震災で活躍されたそうです。

もう二度とあってはならない恐ろしい事故ですが、亡くなった方々の命は、遺族だけでなく、事故処理に携わった多くの人たちの中に生き続けていて、大きな優しさを生み出し、社会の中で生き続けているのだなと思いました。

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