見出し画像

初めての味

 七月十四日の午後五時過ぎに自習用具をまとめた浜野が帰っていき、とうとう二人だけになった教室であちーあちーと机にへばりつく私をにこにこと見下ろして「初めての味を考えておいてね」と言ったその額にはやっぱり一滴の汗も浮いていなかった。いまだに彼女の汗を見たことがない。夏でも長袖だし体育ではジャージを着てるようだし、どれだけ制汗剤を塗りたくっているのかとかどうやって排熱してるのかとか気になって仕方ない。そのうち中から爆発するんじゃないかと半ば本気で心配しているのだが、えっと、今なんて言った?
「初めての味?」
 そうだよ、とやっぱりにこにこ頷くので「何の?」と訊いてやると、
「初めてのキスの味」とわざとらしく両頬に手を当てて答えた。
「いやまったく意味が」
「直前に食べた物の味っていうでしょ。ブレスケアのミント味とか絶対いやだから。ミントきらい」
 とその言葉で私がチョコミントアイスを貪り食ってるときの視線の意味がようやくわかったのだけど、いやいやそんな話ではない。といったところで何だこれは。どんな話なんだいったい。
「じゃあ考えておいてね。明日まで」と言って彼女は足取り軽やかに教室を出ていった。いや待て。今日は一緒に帰る予定ちゃうかったんか、と引き留める気力もなく、ひとまずは開いたノートの隅に「初めての味」とシャーペンで書いておいた。私は自分の記憶力をまったく信頼していないので我ながら良い判断だったとは思うが、重要な一単語を抜かしたのは自分なりの慎み、照れ隠しというもの。とはいえそれだけだと忘れそうなので下線を引いておいた。赤で。ノート上では源平合戦と同じ重要性ということになる。すごいな、大事件だ。
 付き合って二ヶ月が経つがいまだに実感がない、というか信じられない。意味が分からないといった感じである。まあ体験入部で一緒にギターを弾いたことが忘れられずマンドリン部に入ったもののその姿がなく第三音楽室の入口で絶望の叫びを漏らした分際で意味が分からないも何もなかろうと思うけど、不協和音を響かせる失恋シンガーに五百円玉投げつけた中途半端な金持ちの顔がその相手だったのだから意味も分からなくなる。何の意味なのかよくわからないけど。
 デスクライトに照らされた歴史のノートを見下ろしつつ、つまり家に帰ってご飯を食べてお風呂に入ってそのノートを開くまですっかり忘れていたわけだけど、初めての味といえばやっぱり甘酸っぱいものだろうと腕組みしながら思いつく。今の季節なら甘夏なんかちょうど良さげだがすぐさま却下。酸っぱいものは苦手だ。チョコレートもカラムーチョもいけるが、あのスッパムーチョというやつは信じ難い。あんなの今でも売ってるのか、と調べて正しくはすっぱムーチョであることを知る。ドラえもんみたいなやつだな。
 いやしかし、と布団にくるまってスマホのカメラロールを眺める私には勝算があったのだ。なにしろこの二ヶ月、完全に委ねられた彼女のリードを握って私は東奔西走の大迷走をくりかえし、ともかく手を繋ぐこと腕を組むことまでは達成したうえであとはひたすら飲み・食い・写真を無限ループしていたのだからこのスマホには彼女が飲み食いする姿が無限に納められている具合で、一緒にいるときはそんな観察している余裕なかったけれど、一枚一枚おっていけばおのずと好みもわかるという寸法。
 と思ったのだが、困った。全部同じ顔である。食べもの飲みもの甘いもの辛いもの熱いもの冷たいもの硬いもの軟らかいもの高いもの安いもの上品なものゲテモノ旨いもの不味いもの、何を食べても同じ顔でいるんですけども。えっと、何でも美味しく食べる食いしん坊? なわけはなく、というかこれは私がいつも見ている顔であり、彼女は素がこの笑顔なのである。つまり実はどれも気に入ってなかったということだろうか。それとも食には興味ない系でソイレント信者とか、可能性はいつだって無限大である。あるいは今回のこれは「飲み・食いには興味ないことにいい加減気づけ」という言外のメッセージのようにも思えてくるし、そうなると別れ話の三文字が頭をぐるんぐるん巡るし、いやしかしそんな相手と翌日接吻の約束を交わすかね、と頭の冷静な部分は言うのだけれど、そういうことを普通にしそうなところが良いんじゃんと熱暴走気味の部分が反論する。っていうか明日するのか、本当に? いやもちろん、好きになるとか付き合うとかの衝動は性欲由来なわけで、ということはいずれ由来部分に向かってゆくのは自然な成行きではあろうけれども、私だってそういう欲望下心込みでギターをじゃんじゃか弾いていたのだけれども、しかし明日って。心の準備というものがあるでしょうに。二ヶ月間準備を怠ってきた私が悪いのはそのとおりだけども。
「決まった?」と唐突な連絡にうっかり返信してしまった写真は彼女が「まるでミカンを冷凍したようなアイスバー」に齧りついている姿であり、まあその一心不乱さは今まで見てきたもののなかで随一と言えなくもなく、後に引けなくなって三十秒後に送信した「これでいく」「わかった」とこれで夜のやり取りは終わる。しかしまるでミカンを冷凍したようなアイスバーって何なんだ。冷凍するな、ミカンを、まるで。
 言ってしまったものは仕方なく、別れ話に比べればたかが酸味が何だというのか、すべて味蕾のみる幻想、と全授業を聞き流し、気づけば放課後になったのでいそいそと準備を始めるこちらに向かって浜野が言った「たまにはほかの場所でやってくれよ、教室じゃないと集中できないんだよ」ということの意味を考える余裕など私にはなかった。
 二階上のクラスから彼女がやってきて、いざ、と武将みたいなことを言うので笑ってしまったがそれが本気のかけ声だったことを一秒後に知る。いや雰囲気とか、と思いかけたが夕暮れの教室は普通に良い雰囲気に思えてくるし、いつもなら開いてるはずの廊下側のカーテンが降りていることを確認する冷静さを保ちつつ、そうして味わったのは紛れもないブレスケアのミント味。写真の彼女がアイスバーを食べる横でチョコミントを貪っている私にそのとき気づいたけれど、いやそれならチョコミントを食べて来いよと突っ込むいっぽう、みかんゼリーで妥協した私にそれを言う権利はないとも思うのだけれど、とはいえみかんゼリーとブレスケアだったら私のほうが頑張ってるだろとやっぱり不満もあり、そのどれも言葉にすることはできないのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?