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アルノーパ(あるいはアルノペウエルと呼ばれる妖精)

 アルノーパあるいはアルノペウエルと呼ばれるその妖精は、ひとまずここではアルノーパと呼ぶこととして、悪戯好きの妖精として知られるが、しかしほかの妖精たちとちがい、人間をそそのかし底なし沼に誘い込むことも、夜中に食器を割ることもできぬ非力さで、女神の怒りに触れて魔法を奪われたのだとある伝承は語るが、ともかく史料が少ないため判然としない。ひとつ確実なのは、アルノーパは噂の妖精、噂を語る妖精、噂を広げる妖精。以下は十六世紀の修道士マキーエンの手紙。

 巡礼の折、司祭様にはたいへんな助力をいただき誠にありがとうございました。さて今回お手紙をしたためましたのは、あのときお話しした例の一件、つまり我が修道院で広がりつつあった噂について加えてお耳に入れたいことがあるからです。先年より我が修道院では妙な噂が立っておりました、なんでも――修道院の倉庫、農具や飼葉や保存食などを仕舞っているあの黴臭い建物でひそかに女と逢瀬を重ねている修道士がいる、と。その女こそは悪魔の化身であり、我らを誘惑するため地獄より湧き出、やってきた修道士どもを堕落へ導いている。そう云うのです。初めは鼻で笑っておりました私も、倉庫にふらふらと吸い寄せられる修道士が山と現れ、それどころか堕落など気にせぬ悪魔とまぐわえるなら是非体験したいと市井の者が修道院の敷地にわらわら踏みこんでくる事態となっては無視もできず、倉庫の周りに縄を張って自ら見張ることとしました。しかし一日二日、一週間二週間経っても女どころか栗鼠の一匹の影も見ず、やはり根も葉もない噂、我が言をもってこの騒ぎもようやく収まるだろうと欠伸まじりに修道院に戻ったところ今度は地下に出ると云う。
 そういうわけで今度は地下を立入禁止とし見張りについたのですがやはり倉庫と同様、女はなくただこちらは鼠が這い出して来るのでしたが、噂はいっこうに止む気配を見せぬばかりか更に拡大し、はては隣町からきた男どもが群を為してああでもないこうでもないと侵入の算段を付け始め、なにを勘違いしたか盗人までも大挙してくると地下室の入口で押し合いへし合い、階段を団子状に転がり落ちる大事故発生とあっては疑わざるを得ないでしょう。この噂は何者かが意図をもって広めている。
 そもそもこの噂を最初に語りはじめたのは何者なのか、こうも噂が広まりきっては探求は難しいと領解しつつも、とはいえこの修道院が発生源となったことは確実。誰へ訊ねても「人から聞いた」と答えるだけだったところ、倉庫の掃除番へ訊いてみると彼は厨房係に聞いたと云い、厨房係は廊下で図書を持ち歩く二人が会話していたと云う。次から次への連鎖でありましたが延々繰り返すうちようやく最初の一人と思われる者に辿り着きました。アッシャー、私の傍付きの修道士でございます。彼に問い詰めましたところ瞬き多く胡乱な視線を左右へ躍らせ「憶えていません」と一言。図書の整理を行っていた最中いつの間にかその話を知ったのだと云う。誰かから聞いたというのだがその誰かがさっぱりわからないとあっては私も図書室へ赴くのみでしたが、むろん脳裏にはあの名前、アルノーパあるいはアルノペウエルと呼ばれる妖精が念頭にあったのです。
 時は夜半過ぎ、月光が絹糸のごとく垂れ降りる室へ微量の埃を散らし現れたのは片腕ほどの身長の人型でございました。人型といっても善く見れば手には蛙のような水掻きが付き、脚は蚯蚓のように細く、顔も目玉の飛び出たようなありさまでしたが背に羽はなく、どのようにして空中を漂っているのか不明なのでした。ともあれ彫像のように息を殺して待ち構えていた私を見てアルノーパは仰天、魔法が解けたように床へ落下し、こちらへ右手を伸ばすと恥ずかしいとでもいうのか顔を背けてしまいました。
「なぜこのような人心を惑わす真似をするのか」と私が問えば、「お赦しください」とか細い声で答えます。
「お赦しください修道士さま、信仰深き方、そしてその慈悲をどうか恵んでほしいのです。私どもはこの醜い姿が気紛れな女神の眉を顰めさせたばかりに魔法を奪われ、いまやこうして埃と食べ残しを糧に永らえているにすぎませぬ。あまりの惨めに憂さを晴らそうとしても我々に残されたのはこの口と耳のみ。日々を敬虔に生きておられるあなた方の耳に這入りこみ、ささいな風説を嘯いてはそれの広まってゆく様を眺める、それだけが我らの唯一の愉しみなのでございます。それすらも時が経てば忘れ去られてゆく。どうかお目こぼしいただけませんでしょうか」
 そう言われてしまえば覚えず同情心が芽生え、この小さき朋の悪戯に憐れな微笑ましさすら感じるのでしたが、しかしこのような騒ぎを引き起こして修道院の静謐な生活を掻き乱されては困るのだと伝えれば、「それは違うのです」と答える。
「私どもはこれまでもたびたび、修道院にかぎらず市井でもさまざまな噂を囁いてきましたが、しかしこのような広がりを見せたのは今回が初めてのこと。我々も思わぬ例であることをご理解いただきたいのです。初めの一人が影響力を持つ人間であったためこのような事態を招いたものと思われ、そこに我々の力は及ばぬのです。我々は噂の種を植え付けますが、それを開花させるのは人間なのですから」
「たしかにアッシャーは話の巧い男だが」
「憶えておられぬのですか」とアルノーパは驚いた顔で、「あのアッシャーに噂を伝えた者が誰かを、憶えておられぬのですか、あの倉庫へやって来た人間に囁いた私の言葉を」
 そうして思い返してみれば、たしかに思い返せぬのです。私は誰からあの噂を聞いて誰へ伝えたのか。それは他人から聞いたことは確実なのですが、その他人とはアッシャーだとずっと思っていたのですが、しかし記憶の何処を探してもそんな事実は見当たらず、そもそもアルノーパあるいはアルノペウエルと呼ばれるその妖精の名をどこで知ったのか月光が絹糸のごとく垂れ降りる室で分からぬままにいるのです。




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