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「誕生日を祝う」が苦手

〈1857字〉

「誕生日を祝う」が苦手だ。
誰かに対して「誕生日おめでとう」と自分から伝えることは1年を通してもまあないのではなかろうか。

「薄情なやつだ」と思われるだろうか。
特に否定するつもりはない。自分もそう思っている。
祝うことがないからそもそも人の誕生日を覚えることさえない。薄情だ。

世の中の多くの人にとって、「身近な人の誕生日」って何だろう。どういうものなんだろう。
きっとその認識がそもそもずれている。

誕生日は「うまれた日」のことだけれど、それを「おめでとう」と祝うことって、何だか壮大すぎやしないだろうか。
もちろん生命の誕生は奇跡であり、今日誕生日を迎えた人と出会って関係性を築けたことも、偶然だ。
しかしそれでも、いくら何でも、「生まれたことがめでたい」「この日まで生きてこられたことが喜ばしい」と伝えて祝福することがひどく極端に思えてならない。

いや、きっと多くの人はそこまで考えていなくて、自分の思想が極端なだけであろうことは理解しているつもりだ。けれど私は、「思ってないことが言えない」のだ。これは誕生日を祝うことに限った話ではない。

何が言いたいか。つまり、私が何のわだかまりもなく心から「誕生日おめでとう」を他者に伝えるには、相手に対して「生まれてきてくれてありがとう」と心から思っている必要がある。

いや、心にもない(とは些か冷たすぎるが)「おめでとう」を言おうと思えば言えるのだけれど、「”誕生日のお祝いメッセージを言う人”をやる人」になってしまう。その形式的な言葉を相手に伝える自分が、ひどく滑稽な気がしてしまうのだ。

そう、この「誕生日おめでとう」の形式的な雰囲気もよくない。いよいよ自分以外の何かのせいにし始めてしまった。

誕生日の人が1人その空間にいれば、おそらく誕生日の人以外全員が「おめでとう」と伝えるし、多分「おめでとう」以外の言葉で祝福する人は、まあいないと言ってしまってもいいだろう。選択肢がなさすぎる。誕生日の祝福とは、あまりに窮屈だ。そんなだから、「別に言わなくてもいいんじゃないか」みたいな気持ちになってしまう。こんなの言葉というよりもはや「台詞」だ。同じ台詞が5でも6でも多分そんなに変わらない。こんなの、言う気が失せてしまっても無理ないだろう。

そういえばこの話で思い出したが、私はLINEで「承知しました」とかを送るのも好きじゃない。グループLINEで「感謝を伝えるスタンプ」を全員が送らなければならないあの雰囲気も好きじゃない。形式的すぎる。そういう「言わされる言葉」に触れると、どうにも心が落ち着かない。大体承知もしているし、ありがとうとも思っているけれど、思ってもないことを言っているような気持ちにさせられてしまう。これがとてもよくない。

あとはそう。
別に私も、「誕生日は別にめでたいものではない」と心から思っているわけではなく、中には多分本当に心から「おめでとう」を言える人もいる。けどそれって相当限られている。やっぱり薄情かもしれない。

本当は、誕生日の知り合いみんなに「おめでとう」を言えばいいのかもしれない。けれどどうしても憚られる。

誰でも平等にやってくる誕生日。誕生日なんて、日が違うだけでみんな同じ。けれどだからといって、誕生日を迎えた全員に同じ「おめでとう」を伝えてもいいのだろうか?
「いいのだろうか?」というのも何か変だが、同じでいいならきっと伝える意味なんてそこまでない。と、思ってしまっている。

「ならば、別でメッセージを添えれば済む話では?」
そんな器用なことができるわけないだろ。誕生日を迎えた人に「おめでとう」さえ言えない人間にそんな高度なことを求めてはいけない。

誕生日メッセージの熱量に明らかな差が出てしまうのも嫌だ。というか今まで色々言ってきたけれど、結局こっちがかなり嫌だ。
その差を埋めるには、「そこまで熱量が高くない人に対して熱を盛った言葉を贈る」か「心からのメッセージの熱量を抑える」の2択になってしまう。この2択なら私は後者を選ぶ。だってそのほうがラクだから。


……こんなことを言いながらも、自分が誕生日を祝われるのはちゃんと嬉しい。これは本音。本音だけれどやはり。

形式的な「ありがとう」の台詞が自分から出てくることに、ぞわぞわしたりもする。

そういうのも良くないなとは思ってる。思ってるからnoteにした。多分。
だから、今まで伝えられなかった分や、これからも伝えられないであろう分の祝福をまとめてここで伝えておくことにしよう。


世の中全員、誕生日おめでとう。

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