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「好き」は何者かになるための原動力になるか?

大好きなアニメ監督の幾原先生のツイートを見た。
私はこのツイートに全面的に同意している。
私が「何者かになりたい」かどうかは別として。

イクニ作品と呼ばれるアニメの数々においても、「何者かになる」ということをひとつのテーマとして挙げられると思う。その過程で描かれるのはキャラクターの「好き」だったり「エゴ」だったりするので、幾原先生のこのツイートは自身の信条を一貫していると感銘を受けた。

だが、このツイートに反論したくなる人もきっと多いだろう。それは夢を見すぎだ、とか、数年後は無理だ、とか。
このツイートで最も需要なのは「好きに近づく創作を続けていく」という部分である。

このツイートの「続けていく」という言葉をあなたはどのように思っただろうか?
私は生半可な気持ちで続けていても、「何者か」にはなれないと思った。

数年で「何者かになる」を叶えるためには、毎日毎時間毎分、「好き」に向き合い続け無ければならないだろう。
そして、自分の表現した「好き」が自分の目標としている「好き」に本当に近づいているのか、自分に問いかけなければならない。
だからきっと、「好き」だけを見続けることは苦しいのだ。自分の「好き」が正しく表現できるとは限らないのだから。
幾原先生のツイートでは、「好きを表現する」ではなくあくまで「好きに近づく」と表現されているのはそういうことなのではないかと私は感じた。


幾原先生は他の方の引用RPを引用する際、「イニシエーション」という単語を用いている。

イニシエーション(initiation)

ある集団や社会で、正式な成員として承認されること。また、その手続きや儀式。成人式・入社式はその一形態

デジタル大辞泉より

つまり、「何者か」になるということは、社会に承認されるということである。
「好き」だけを突き詰めると、その人特有の「好き」になる。それは集団において際立ったもので、注目されるものになる。それを続けていれば、自然に社会に承認されることになる。それこそが「何者か」になるということなのではないだろうか。

だが、「好き」を続けるのはあまりに険しい道のりだ。

幾原先生は元ツイートのリプに以下のツイートを提げている。

「好き」の力は人が想像するよりも弱い。拡散されにくく、伝播しにくい。
圧倒的に「嫌い」や「間違えてる」の方が伝染する。その伝染を自己の承認と勘違いしてしまう。「嫌い」は良くも悪くも発するための必要エネルギーに対し、効果が強すぎるのだ。

「好き」を表現し伝えるためには多くのエネルギーが必要だ。
「好き」に近づき続ける。それは絶え間ない努力と信念と時折「自分の好きのために本当に正しい道に進んでいるのか」と自問することも必要だろう。それはとてつもなく苦しく孤独だ。

それでも私は「好き」を突き詰めていきたい。
「好き」に誠実でありたい。
その結果が「何者か」になれても、なれなくても。
このツイートを見て、そういう決意をした。

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