(52)委奴國王と親魏倭王の間

052金印

魏帝国が漢の制度を継承していたなら、卑彌呼女王が手にした「親魏倭王」印は印面2.3cm四方、重量100g強の小さなものだったでしょう。

参考になるのは、江戸時代、徳川第9代将軍家治の天明四年(1784)、福岡県の志賀島から発見された「漢委奴國王」の金印です。

発見した甚兵衛という百姓が黒田藩の役所に提出した口上書によると、田起こしをしていた旧暦の二月二十三日のこと、大きな石を取り除いたところ、その下から出てきた、といいます。大きな石は支石墓だったのではないか、と考えられています。

発見時は偽印・真印の議論がありましたが、現在は『後漢書』が記す「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」(建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う)のときの印と断定されています。建武中元二年は西暦57年に当たります。

手のひらにすっぽり収まるほどの大きさです。紛失してはいけないので、長い紐(綬)を通して首に下げたり肩から斜にかけたりします。持ち運びができるものだけに、「親魏倭王」印の出土地が邪馬壹國の所在地とか、卑彌呼女王の埋葬地とかの決定打にはなりません。実際、「漢委奴國王」印は、「奴國」に比定される福岡県春日市から直線で25kmも離れた志賀島の叶崎(金ノ崎)に埋まっていました。

いわゆる「邪馬台国論争」でもう一歩も二歩も詰めてほしいのは、「漢委奴國王」印の保有者と卑彌呼女王のつながりです。

「漢委奴國王」印は西暦57年、「親魏倭王」印は238年(239年とも)ですから、180年の時間が流れています。その間に何があったのか、ということです。

周知のように、『後漢書』はもう一つ、「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」(安帝の永初元年、倭國王帥升等、生口百六十人を献じ請いて見ゆることを願う)の記事を載せています。

永初元年は西暦107年です。

このときの遣使については、「願請見」とあるだけなので使者は朝見できていないのだろう、楽浪郡で門前払いにされたに違いない、それは「委奴國」の正統性を証明できなかったからではないか、という指摘があります。

また生口(奴隷)160人は、戦いで得た捕虜を連れて行ったのではないか、とも言われています。

さらに永初元年の「倭国」は、「倭面上國」(『翰苑』)、「倭面土國」(北宋版『通典』)、「倭國土地王」(『唐類函』)といった表記があって、建武中元二年の「倭奴國」(金印は「委奴國」)とは違っています。

北宋版『通典』の「倭面土國」を「ヤマト」と読む説と、「倭人伝」にある「末盧國」と解釈する説がありますが、いずれにせよ「倭」(ないし倭國)を代表する王(王統)に交代があったという点で一致しています。

もう一つ、「倭人伝」は伊都國について「丗有王」と記しています。「丗」は「世」の異体字ですので、「世に王有り」と読んで、何世代か伊都國にも王がいた、と解釈するのが一般的です。西暦2世紀にも王統の交代があった、ということなのでしょう。

口絵:「漢委奴國王」印(福岡市博物館所蔵)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?