(45)「倭」のコロニーを探る

042倭のコロニー

「倭」のコロニーはどこにあったのか、中国の古文書から探ってみます。

編纂時期が分かっている範囲で早い時期に「倭」の文字が登場する中国の文献は『漢書』『論衡』『説文解字』の3書です。『漢書』は文字通り前漢時代の出来事を描いています。その「地理志」に「楽浪海中有倭人」(楽浪の海中に倭人有り)の記事が出ています。

『論衡』は西暦97年ごろの著作で、著者は会稽郡出身の王充という学者です。『漢書』の編著者・班固の父・班彪の私塾で班固と机を並べました。西暦57年、「委國王」が訪れたとき、王充はまさにその長安にいたのです。

ここに周の成王のときのこととして「越裳献白雉倭人貢鬯草」とあります。

周の成王の在位はB.C1042~B.C1021年とされ、そのとき越裳は白雉を献上し、倭人は鬯草を貢した、というのです。鬯草は酒に煎じて飲むと寿命が伸びるとされた霊草とされています。

後漢の人々は、倭人を神仙國「蓬莱」の人と考えていた節があって、蓬(よもぎ)の文字が使われているのはそのためです。

『説文解字』は許慎という学者が永元十二年(A.D100)に編著した中国最古の字典として知られます。紀元1世紀の後漢朝廷で使われていた文字を偏・旁で整理し、その成り立ちや意味、発音を体系化しています。 そこに「倭」について「从人委声」(人に从い委の声)(从は従の意)とあります。

「倭」の文字は委に人偏が付いたもので、その音は「委」と同じ(イまたはヰ)であると言っています。

『山海經』(せんがいきょう)は著者不明の地誌書です。戦国春秋時代から民間に伝わっていた神話や妖怪説話を複数の著者が書き継いだものです。その「海内北經」に「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」という記事が見えています。

この読み下しは難解です。「蓋國は倭の北、鉅燕の南に在り、倭は燕に属す」と読むのが定説化していますが、もう一つ重要なのは「海内北經」という巻名です。

「海内」は華夏領海の内側という意味ですから、渤海沿岸以北と理解していいでしょう(『漢書』地理志の「海中」も華夏領海の意味でしょうか)。 また同書の朝鮮条には「朝鮮在東列陽北海南山列陽属燕」(朝鮮は列陽の東、海の北、山の南に在り。列陽は燕に属す)とあって、「列陽」は列水の北辺のことと解されます。

「朝鮮」と聞くと半島を思い出しますが、古代には遼東地方を指しました。 列陽も倭も燕に属していたので、朝鮮の場所を説明するのに列陽を拠点とし、鉅燕の場所を説明するのに倭を拠点としたのです。

そこで「蓋國」を遼東半島の北にある蓋馬高原に由来すると考えることができます(まぁ想像の域を出ませんが)。 蓋馬高原に居住していたツングース系種族、のちに夫餘と呼ばれた人々のことではないかと思われます。

夫餘族は紀元前3世紀以後、高句麗と馬韓に分かれます。馬韓の故名は「蓋馬韓」だったという記録が残っています。 いずれにせよ「倭」の居住地は遼東半島の北部のどこかです。

「燕に属す」は朝貢で往来していたというより帰属とか宗属と考えていいのではないかと思います。日本列島とはかけ離れていますけれど、コロニーという視点からするとまんざら無視はできません。

口絵:『山海経』に登場する妖怪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?