(8)北東アジア世界における識別子

中華人民共和国 のコピー

最初のうちに書いておくべきだった、と気がつきました。改むるに憚ること勿れ、です。それは、古代における「日本」とは何を意味するものだったのか、ということです。

わたしたちは一般的に、「日本人」といえば「日本に生まれた人」と考えます。しかしそれは間違いで、外国や飛行機・船舶の中で「日本人」を親として生まれた場合でも、外国人を親として外国で生まれ、外国籍で日本語を話せなくても、「日本国籍」を取得すれば「日本人」です。

これは国際的な共通認識としての「法治原則」に基づく現代の考え方で、つまり「日本国籍」を持つ「日本人」には、等しく「日本国憲法」が定める権利と義務が適用されます。現代における「国」は、原則として国際法が定める国境の内側を意味していますが、外国で紛争や疫病が発生した場合、日本国政府が当該地域に居留する「日本人」の救出に向かうのは、国民の生命・財産を守る義務を負っているからです。

しかし古代には「国際的な共通認識としての法治原則」がありませんので、現代的な意味での国境が存在していません。強いていうと、中国大陸の一定の面積を支配した歴代の王朝(殷、周、秦、漢、魏、晋、隋、唐)の知見が、当時の北東アジア地域の共通認識になっていました。 実は「中国」の概念も時代とともに変化しています。

殷、周のころの「中国」は黄河を北限とする長江(揚子江)の流域を指していました。漢の時代に黄河以北が「中国」に含まれ、朝鮮半島の北半にも中国王朝の統治機関が置かれていました。 中国の王朝は、自分たちが世界の中心にいて最も高度な文化を持っているという中華思想を持っていて、周りにいるのは未開の民なんだ、と考えていました。北の民を「北狄」、東を「東夷」、南を「南蛮」、西を「西戎」とし、「夷狄」「戎狄」「蛮夷」「四夷」などと呼んだのは周知の通りです。

ここで留意しなければならないのは、「中国」の領土が広がるにつれて「四夷」の対象も変わっていきましたし、気候の変動を大きな要因として周辺諸族も移動したということです。 つまり「四夷」に付けられた呼称は、必ずしも地理的な領域ではありません。中国王朝の歴代知識人が「四夷」を観察したり調査して、共通する顔つきや服装、言語などの外形的特徴、されに習俗や嗜好などを整理した結果が、「匈奴」「扶餘」「沃阻」「濊」「高句麗」「韓」「倭」などの呼称になっていったのです。

それは中国王朝が周辺異族と接触する際の識別子だったということができます。それが当該種族の自称となり、古代北東アジアにほぼ安定した国際秩序が形勢された西暦600年代以後、北東アジア地域の共通認識になっていったということができます。

写真はWikipedia「中国行政区分の面積一覧」から




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?