(166)呉から織工女を連れてきた

166喜多向稲荷西宮市

呉織伝承が残る喜多向稲荷神社(西宮市松原町)

 5世紀の倭国が華夏帝国(宋)から学者や技術者を招いて技術を輸入し、留学生を送って中華の政治哲学や史観、行政手法や文化習俗を学ばせたとするのは、必ずしも故なしごとではありません。前節までに触れたように、社会の上位階層(支配階級)の黥を禁じたのが一つの証左です。

 『書紀』全文を検索すると、中国江南地方を意味する「呉」の文字は、ホムダ大王(応神)卅七年春二月条「遣阿知使主都加使主於吳令求縫工女」(阿知使主都加使主を呉に遣わし縫工女を求めしむ)が初出です。ホムダはヤマト王統の年紀を過去に引き伸ばすために創作されたゲタ履き大王で、実態は『宋書』に見える「倭讃」の事蹟を反映しています。

 教科書日本史の通説は「倭讃=オホササギ=仁徳」です。しかし本稿は、「倭讃とオホササギは実在だが、イコールではない」と見ています。7世紀ヤマト王権にとって都合がいいように、倭讃の事蹟をオホササギに重ねたのです。それはワカタケル=雄略も同じです。

 「阿知使主都加使主」はホムダ大王廿年秋九月条に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」(倭漢直の祖・阿智使者主、其の子・都加使主並びにその党類十七県を率いて来帰す)と説明されています(使主じゃ「おみ」と読んで、「臣」に通じる古代の尊称)。「十七県」がどれほどの規模を意味しているのか不明ですが、古代の「県」は「郡」の下に置かれた行政区画ですので、4けたの人数でしょう。

 また『續日本紀』延暦四年(785)六月条には、「後漢靈帝之曾孫阿智王」「漢祚遷魏 阿智王因牛教 出行帶方」とあって、後漢朝第12代孝霊皇帝(劉宏、在位168~189)の曽孫・阿智王が、魏朝が成立したころ帯方(郡)に逃れたという逸話が乗っています。

 阿智王が阿智使主のことなのか、その先祖なのか不明です。いずれにせよ阿智使主が倭国に渡来したホムダ大王廿年は、『書紀』崩年干支ベースだと西暦289年です。1元(60年)繰り上げた349年ごろ、2元(120年)繰り下げた409年ごろの出来事ということになってきます。

 阿智王ないし阿智使主に想定外の紙幅を割いてしまったのは、4世紀の倭國(ないし倭讃の王統)が奈良盆地に所在していなかったことの傍証になるためです。阿智王ないし阿智使主と都加使主の父子が4けたの人数を引き連れて「来帰」したのは、帯方郡(の故地)と倭國が陸続きだった証拠となります。

 話を「呉」に戻すと、阿智使主、都加使主の父子はまず高句麗國に渡り、高句麗王の案内で「呉」に至ることができました。そして「呉王」の許しを得て、兄媛、弟媛、吳織、穴織という4人の工女を連れて筑紫に帰着します。それはホムダ大王四十一年のことで、同じ年にホムダ大王は亡くなっていました――というエピソードです。

 『書紀』は4人の機織りを連れ帰った、と主張するのですが、つまるところそれは機織りの技術ばかりでなく、糸を縒る技術、染色の技術であり、機織りの機材など一式を中国・江南地方から輸入した、ということです。

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