(151)意外に明石海峡がポイントかも
明石海峡大橋と五色塚古墳(写真下部中央)
生まれたばかりのホムダ(誉田:第15代応神)王を擁してオキナガタラシヒメ(氣長足姫:神功)が瀬戸内海を東上したとき、大和の忍熊王が播磨の赤石に迎撃の陣を構えました。赤石は兵庫県明石に比定されています。
なぜ赤石か、その由来は分かっていません。明石市のホームページにある『「あかし」の名前の由来は?(ものしりコーナー)』には、
――明石の北にある雄岡山、雌岡山の近くに住む男が、小豆島に住む美人に会うため、鹿に乗って海を渡っている途中、猟師が放った矢が鹿にあたって鹿は死に、男はおぼれて死んでしまいました。血で赤くなった鹿はそのまま岩になってしまい、それが赤石と呼ばれるようになりました。
という伝承が掲載されています(雄岡山の読みは「おっこさん」、雌岡山は「めっこさん」)。なぜ鹿なのか、なぜ小豆島なのか、なぜ猟師が鹿を射ったのか等々、追究のネタは尽きません。
イハレヒコ(磐余彦:初代神武)の東征軍を大和のナガスネヒコ(長髄彦)が陣を構えたのは河内日下の孔舎衛坂(くさえのさか)でした。河内日下は大阪府東大阪市の日下で、本稿で物部宗家の本拠地、古墳時代の馬の全身骨が出土したことなどを紹介しています。孔舎衛坂は河内から奈良盆地に入る生駒越えの道のことで、つまり「ヤマト」の語源となった「山門」です。
『書紀』の伝承を信じるわけではありませんが、徳川将軍家15代を当てはめると、三輪王朝のテリトリーは250年間で河内日下から播磨明石まで、西に約80km広がったことになります。船で東上するのは筑紫勢が海洋交易の民、陸上に陣を張るヤマト勢は農耕民の証ですし、明石海峡が軍事上の要衝だったことを示しています。
忍熊王のことで触れておきたいのは、王はタラシナカツ彦(足仲彦:仲哀)の陵墓を造営すると偽って兵を動員した、というエピソードが『書紀』に載っていることです。太い綱で淡路島まで船をつないで石を運んだ、というのは、なるほどそんな風にして巨大な古墳を築いたのか、と思います。
そしてもう一つ、神戸市垂水区の明石海峡大橋を望む高台にある五色塚古墳です。築造は4世紀末から5世紀初頭と推定される3段式の前方後円墳で、全長1 94mは兵庫県最大です。墳丘の表面を覆う葺石は223万個、2784万トンで、淡路島産と判明しています。『書紀』の記録と一致しているのです。
また、明石には「明石國」があって「明石國造」がいたことが分かっていて、すぐ近くにある円墳(小壺古墳、直径70m)とともに、その墳墓と考えられています。これが単なる埋葬施設でないことは、忍熊王のエピソードからも明らかでしょう。明石海峡を遠望し、ときと場合にとってはここが砦となったのです。明石を抑えた者が淡路島も抑える構図で、ここに王国が存在していた証です。
ウヂノワキイラツコを「宇治天皇」と記し、市辺押磐王を「市辺天皇」と記すのは『播磨國風土記』です。そして市辺押磐王の遺児(意奚王と袁奚王)がヤマト王統を継いだことになっています。『書紀』の立場ではそう書くのでしょうが、要するに乗っ取ったのです。