(22)天照大神と高天原は後付け

022伊勢神宮

ミマキイリヒコのときイカガシコヲが大物主神を三輪山に祀ったとき、天照大神はどこにいたのかーーこの問いに対する一つの答えは「高天原」です。『書紀』に「天照大神は高天原を治めるべし(天照大神者可以治高天原也)」とあることに依っています。

ただしそれは『書紀』が参照した11種の「一書」に載っている記事で、本編では「大日孁貴」「天上の事を授く」となっています。「大日孁貴」には万葉仮名で「於保比屢咩能武智」とルビが振られていて、「オホヒルメのムチ」と読ませています。同じ『書紀』で「ヒルメ」には「日女」の文字が当てられていますので、天照大神は女性の神さまであることが分かります。

ところで『書紀』全編に「天照大神」の文字は51回登場します。物語の登場人物として42回、祭祀にかかわる記事で9回という内訳です。高天原の主宰神なので物語に多く登場するのは当然として、興味深いのは祭祀に関連する記事でしょう。

ミマキイリヒコの治世に発生した疫病は、大王の王宮に祀ってあった天照大神と大國魂神(大物主神)の仲違いが原因だった。そこで大王は天照大神を「倭笠縫邑」に移し、大物主神を三輪山に祀った。次にイクメイリヒコのとき、天照大神を伊勢の五十鈴川の川上に祀った、というのです。

ヤマト王統の大王は天照大神の祭祀に悩んだと見えて、王宮→倭笠縫邑→莵田筱幡→近江→美濃を経て伊勢に落ち着きました。なぜ伊勢だったかというと、「始自天降之處也(初め天降った処)」だからというのですが、これは後付けの理屈にほかなりません。

天照大神は最初から伊勢にいたのです。

壬申年(672)丙戌(旧暦6月26日)の朝、オホアマ王(天武)は「朝明郡迹太川邊、望拜天照大神(朝明郡の迹太川の邊で天照大神を望拝した)」とあり、こののち大王位に就いたオホアマ王は伊勢の五十鈴川上流に天照大神の坐宮を造営します。現在の伊勢神宮がこれに当たります。

「朝明郡迹太川」は三重県三重郡の朝明川に比定されていますので、オホアマ王が望拝したのは伊勢神宮ではなく、日の出の光だったのでしょう。ヤマト王統の日神伝承と、飛鳥から見て真東に当たる伊勢地方の太陽信仰が結びついて「天照大神」となったに違いなく、それはオホアマ大王のとき形をなしたと言っていいと思います。

さらに参考になるのは、「高天原」という文字がオホアマ王の正妻・ウノササラ姫、のちに「持統」の諡号とは別の、和風の美称として使われていることです。「高天原」の名を持つ大王はこの女王が唯一です。

この女王は『書紀』の編纂を推し進め、伊勢神宮の斎宮と式年遷宮を制度化しました。「天照大神」はウノササラ女王、「高天原」は彼女が主宰する宮廷政治の写しだったのでした。

写真は伊勢神宮の内宮・宇治橋と大鳥居(TAOYA:旧タラサ志摩ホテル&リゾートから)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?