(167)60年で「倭人の国」から脱皮

167新原・奴山古墳群

安曇一族の墳墓(新原・奴山古墳群:福津市)

 阿智使主と都加使主の父子が「呉」から連れ帰ってきた4人の織工女については余談があります。その1つは、阿智使主を団長とする使節団が中国・江南に使いするのに、まず高句麗に行き、高句麗の案内で「呉王」に通じたという記述です。

 それは『晉書』義熙九年(413)「高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」を彷彿させます。あるいは倭讃が『宋書』に登場する永初二年(420)までの間に、高倭の和議が成立したのかもしれません。

 2つ目は、阿智使主が筑紫に帰着したとき「胸形大神」が工女を望んだので、阿智使主は兄媛を大神に献上した、これが今の「筑紫國御使君」の祖である、という逸話です。「胸形」は胸に刻んだ鱗の形をした文身に由来し、福岡県宗像市の宗像大社が知られます。

 沖ノ島の沖津宮に田心姫(田霧姫)、筑前大島の中津宮に湍津姫、総社の辺津宮に市杵嶋姫(いわゆる宗像三女神)を祀っています。綿津見神と並んで、倭人=安曇族の祭神とされます。

 その宗像総社のほど近く、福津市に「筑紫國御使君」の伝承を残す「縫殿神社」があります。社殿が建つ「奴山」には安曇一族の墳墓とされる新原・奴山古墳群があって、志賀島出土の金印『漢委奴國王』ないし『後漢書』や「倭人伝」にある「奴國」との関連を思わせます。

 後日談のもう1つは、兄媛を除いた3人(弟媛、呉織、穴織)の「その後」です。阿智使主は筑紫から「津國」に至ったとき、自分の「呉國」に派遣したホムダ大王が亡くなっていたことを知って、その後を継いだオホササギに織工女3人を献じました――というのですが、3人の織工女が奈良盆地に入った形跡がありません。

 「津國」は摂津、現在の大阪府北半と兵庫県南東部の古称ですが、『書紀』の記述は「以至津國及于武庫」なので、3人が落ち着いたのは武庫(兵庫県の神戸、西宮付近)だったように思えます。実際、西宮市には呉織伝承を残す喜多向稲荷神社があって、そのことを裏付けているようです。明石海峡を望む丘上に五色塚古墳を残した播磨王朝(王家)の経済基盤は、現代風にいうと繊維・ファッション産業だったのかもしれません。

 それはそれとして、「呉國」から織物の職工と道具、技術を輸入した『書紀』ホムダ大王紀のエピソードは、倭國が華夏(宋)帝国に朝貢したねらいを端的に示しています。そこから推測できるのは、第1に輸入したのは織物の技術だけではなかったはずだ、ということです。

 先進の文物が倭國に流入してきたし、人を招聘するばかりでなく、こちらからも選りすぐりの学生を送ったに違いありません。織工女を連れ帰るのに4年を要したのは、つまりそういうことです。そして第2に、王権は華夏風の衣服や用具、儀礼や仕事の進め方などを倭王宮の標準とし、華夏の先進技術を独占したのでしょう。

 明治維新をきっかけに頭髪の形が変わり、帯刀が禁じられ、軍や警察の装備が洋装になり、洋服が「正式」になったことと重なります。5世紀の倭國にあって「宋風」が「正式」だったのです。倭讃の王城南遷から倭王武の上表まで、3世代(王は5代)60年をかけて、倭國は「倭人の国」から脱皮していきました。

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