(170)仏教は"脱倭人"の決定打

170雲岡石窟

雲崗石窟第20窟(「仏教へのいざない」から)

 難波王朝が目指したミニ中華世界の構築は、それまでの基盤である倭人の習俗を劣後と見做すことを意味しました。支配階層における黥を刑罰に組み入れ、労働階層の文身と武闘集団の黥を黙認したのはその一例です。

 もう一つ劣後とされたのは、森羅万象に精霊の存在を認める多神の信仰です。華夏から輸入した「天」(天帝―天子―天権)の思想が融合して、倭人が祭祀する多神は「天」の神々の下位に置かれるようになっていきます。天照大神は太陽神「ひるめ」(日女)に「天」の概念が後付けされ、ヤマト王統の始祖神に格上げされたのでしょう。

 ちなみに天照大神が主宰する「高天原」の名を諡に持つのは、第41代ウノサララ(鸕野讚良:持統)女王です。すなわち『書紀』は「高天原廣野姫」と記しています。ウノサララ―クサカベ(草壁)―カル(珂瑠:文武)の系譜は、天照―オシホミミ(忍穂耳)―ニニギ(邇邇芸)の系譜に重なります。『書紀』はウノサララ女王を天照大神に擬して、太陽神と祭祀の巫女、祖神の性格を併せ持つ神に仕立てたのに違いありません。

 このことは『書紀』や『古事記』が伝える神話は7世紀の王統譜編纂のなかで整理・再編されたものであって、6世紀初頭の倭人、倭王統の祭祀を語るものではないことを意味しています。倭王統ないし倭王権は華夏から「天」の思想を輸入したものの、多神祭祀のDNAと折り合いがつく非倭人的祭祀を必要としました。

 倭王権が宋帝国との密接な往来を通じて着目したのは、西域から伝来した仏教の興隆でした。3世紀、洛陽を都とした晋にあって180に過ぎなかった仏寺は、5世紀宋のとき1900を上回り、梁・武帝のときは3000に達する勢いでした。また『漢魏両晋南北朝仏教史』という研究論文によると、北魏第7代宣武帝(元格、在位499~515)のとき、北魏では天下の寺数1万3727を数えたといわれます。

 華夏を代表する祭祀は儒教と道教ですが、漢・魏・晋の滅亡と南北朝/五胡十六国の興亡は儒教の礼教思想と道教の虚無思想に基づく権威の失墜につながりました。一方、仏教は支配層、非支配層に布教するに当たって、彼らに馴染みがある儒教と道教の理解手法を活用したとされています。

 仏教の思想哲学をどれほど理解したかは別として、倭王統が華夏を模倣した以上、仏教に関心を持ったことは疑いを得ないところです。教科書日本史は「日本への仏教は、継体(オホド)天皇十六年(522)2月に渡来した司馬達等が大和國高市郡坂田原に草堂を営んだのが最初」としていますが、5世紀後半、播磨王家のヲケ大王(弘計/来目王、第23代顕宗)のとき、すでに伝わっていた可能性が指摘されています。

 『書紀』の崩年干支をベースに二倍暦を勘案して作成した歴代大王在位年表によると、ヲケ大王の在位は西暦485年から487年に当たります。だけでなく、伝来したのは宋王朝第4代孝武帝の大明二年(458)という説もあるようです。

 むろん仏教が古代神道に取って代わる祭祀として受け入れられたとは限りません。ただ倭王統は仏教を「脱倭人の決定打」と受け止めたのではないか、とは思います。

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