(44)日本は「逆封」の音

041逆封の音

2世紀以前の「倭」が古代北東アジア世界におけるヴァイキングと仮定すると、「倭=日本」という前提が崩壊します。なんだよ、40回以上もかけてそこに戻るのか、と呆れる方も少なくないでしょう。

「倭」のコロニーがこの列島に置かれていたとするのは、紀州と房総に同じ地名がある事例が一つの証明になります。それが鉄製の武器を手に、農耕、狩猟採集、漁労の民を従えていった、というのが本稿の論旨です。

つまり東シナ海から渤海にかけて、交易のために船をあやつる海洋族がいて、中国の王朝知識人は「倭人」と名付けた。それは特定の人種、種族ではなく、海の交易民という括りの呼称(識別子)だった、という見立てです。

もう一つネタバレをしておくと、「日本」を「にっぽん」と読むようになったのは14世紀、「にほん」の音が当てられたのは15世紀のことでした。そちらを先に片付けておきましょう。

「日」と「本」の読み(音)については、第14回「日下」と書いて「くさか」と読む理由で触れました。繰り返すと、「日」の漢音(遣隋使、遣唐使が長安から持ち帰った音)が「ジツ」、呉音(5世紀以前、江南地方から伝来した音)が「ニチ」「ニッ」、「本」の音は「ホン」です。

第7次遣唐使の河内鯨、第8次の粟田真人が唐帝国に改称を通知したとき、ヤマト王権は併せて「日本」と書いて「ヤマト」と読むことを求めました。そのために持参した『書紀』の冒頭に「日本此云耶麻騰」(日本、これをヤマトと云ふ)の注を入れたのです。

唐の人々にとって、「日本」は「ジツホン」(当時のリアルな音は不明ですし正確に表現できません)としか読めません。 国内で初めて「日本」を漢音で読んだのは、弘仁十三年(822)ごろに成立した『日本國現報善悪霊異記』(日本霊異記)だとされています。それは「ニチフォンクォク・ゲンパウ・センナク・リャウイキ」でした。

中国大陸の宗帝国(960~1297)、元帝国(1271~1635)では「ジツフォン」「ジツポン」と読まれ、マルコ・ポーロの『東方見聞録』が「Cipangu」「Zipangu」(guは国の音)と表記したことが現在の「Japan」「ニッポン」の由来となりました。

余談になりますが、10世紀のアラビアの地理書や地図では、東方の海に浮かぶ黄金の島を「Wāqwāq」と呼んでいます。これは「倭国」の音を写したのだと考えられています。

「ニホン」はというと、応永十四年(1407)のこと、足利義満が「日本国王」の名で明帝国と交易(勘合貿易と呼ばれます)をスタートさせたたとき、寧波(Níngbō)の人々は「日本」に「逆封」という注を施しています。「日本」という国名は「逆封」の音だぞ、と言っているのです。

「逆」の音は「nì」、「封」は「fēng」なので、併せると「ニーフォン」です。「逆封」という読み方を当てたのは、明時代の寧波の人々が日常的に使っていた発音ないし、それまでの知識と違ったからでしょう。

寧波は奈良の時代、倭国の使の船がしばしば去来した港町です。15世紀になってやっと、「日本」が国名として認知されたのです。

口絵:教科書日本史「遣唐使の航路」

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