(48)倭国では太平道が勝利した
2世紀末の「倭国大乱」を、後漢帝国に対する太平道(黄巾の乱)の一局面とするのは仮説に立った仮説ですから、空想・妄想の域を出ません。どこまで合理性があるか、説得力を持っているか、というレベルの話です。
「倭国大乱」は『後漢書』の編著者である范曄の大言壮語癖ではないか、という指摘があります。「魏志」は「相攻伐」と言っているので、甲斐の武田と越後の上杉の戦いのような、局所的な戦闘というわけです。
学術的な論文はエビデンスと正確性、精密な理論構成が求められるので、「話として面白い」では通じません。表現がどうしても慎重になりますし、さおのために思い切って踏み込むことができません。
しかし「神武天皇架空説」「騎馬民族征服王朝説」「三王朝交代説」「九州王朝説」「天智・天武非兄弟説」などは、いずれも最初は空想、妄想のような見立てからスタートしたのです。
それで今のうちに(というか今ごろになって)触れておくと、2世紀末の「倭国乱」の一方は、中国大陸の長江河口を中心とする東シナ海をテリトリーにしていた倭人で、筑後川河口平野部・熊本平野から以南、沖縄諸島にコロニーを展開していた勢力です。彼らはのちに、見事な彩色古墳を残しました。
もう一方は朝鮮半島沿岸、山東半島から北の海をテリトリーにし、玄界灘を挟む両岸、弁辰~対馬~壱岐~筑紫平野~遠賀川流域にコロニーを展開していた勢力を想定しています。中核は「魏志」が「世有王」と記す伊都国でしょう。
両者は北東アジア世界におけるヴァイキングとして、交易を生業とし、基地となるコロニーでは半農半漁の暮らしを営んでいました。その意味では「倭国」ではなく、「倭地」というべきでしょう。
南の倭人と北の倭人は根は同じで、現在の小郡・朝倉あたりを共通の聖地(緩衝地)として交流していたのだとしてください。だからといってそこが「邪馬壹國」だ、とは言いません。
「魏志」は漢帝国を正統とする立場で記述していますので、倭国乱もその視点での表現です。魏帝国が公認した倭王は、漢帝国が公認した倭王の正統を受け継いでいなければならない、という建前が貫かれていることを留意しなければなりません。
狗奴國側にも多くの国邑(コロニー)があったに違いありません。山鹿、熊本、天草、八代、人吉、水俣、出水、川内、鹿児島、種子島、屋久島……奄美、沖縄諸島、台湾まで視野に入れれば、狗奴國はその北端に位置していて、盟主だったかどうかは全くの疑問です。
「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」(その国、本また男子を王と為し往(とど)まること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること歴年)の「男子爲王」は伊都國の王でしょう。そして景初二年(238)現在の倭王=卑彌呼女王です。
卑彌呼女王は伊都国王の正統を受け継いでいる必要がありました。魏の明帝が「特賜汝」(特に汝に賜う)として「銅鏡百枚」を挙げています。しれはは、卑彌呼女王が道教の巫女であったことを物語ります。
そのように書くと、倭国乱で弁辰・筑紫方が敗れ、筑後・肥後方が支配権を握ったように見えるかもしれません。しかし卑彌呼は鬼道の巫女に過ぎず、政治の実権は「男弟」が握っているようです。
「男弟」は狗奴國の卑彌弓呼王ではない、狗奴國は邪馬壹国連合と対立していた、と考えているのは現代のわたしたちなのです。「邪馬壹國」の背景に、狗奴國と伊都國の権力闘争いがあった、というのが本稿の見立てです。
口絵:千金甲1号古墳(熊本市)