元気に振舞わなくたっていい
「頑張って話してみたけど空回りしちゃった」と後悔したり「また今日も一言も話せなかった」と落ち込んでしまうことはありませんか。私も、かつてはそうでした。その根底には「いつでも元気に振舞わなくてはならない」という思い込みが存在しているからではないでしょうか。
私は中学まではわりとクラスの中心にいて、まとめ役でした。けれども、高校に入ってからは「大人しいね」と言われるように。大人しいなんて思ったことも言われたこともなくて、意表を突かれました。それって暗いってこと?地味ってこと?眼中に入らない存在ってこと?と、当時の私は不安になるばかりで、そのイメージを覆すように、色々な人に話しかけてみたり、妙に張り切ってみたりしていました。
でも、何をやっても上手くいかなくて。クラスの中心の子からは自然と距離を置かれることに。でも、仲間外れとかそういうのではなかったので、非常に大人びた人達と同じクラスになれて、ありがたかったなと今では思います。
そして、わかったことがあります。元気に振舞うことだけが素晴らしいわけではないということ。その場に集まる人によって、自分の役割は異なるということ。そして、その役割は自分で決めてしまってもいいということです。
高校生活も2年を過ぎようとしていたころ、無理をしてまで明るくしていたことに疲れ、口をつぐんで過ごしていました。そうすると、そんな雰囲気を好んでくれる人が声をかけてくれました。「最初見たときのあなたは苦手だったけど、今はいい感じだよね」と(笑)その子も、見た目は物静かでしたが、実は行動派。下宿で休日隠居生活の私を、ボーリングやお笑いのライブに連れて行ってくれました。
その子と過ごしているときの私はとても自然で。それまではしっかり者でいなきゃと思っていましたが、別にちょっとくらい抜けててもいいや~とも思うようになって。でも、そんな私のお世話をちゃんとしてくれるんですよね。「バスの時間調べておいたよ」「チケット買っておいたよ」って。自然体な私でも、ちゃんと好きになってくれる人がいるんだと思えた出会いでした。
「役割」というのは、流動的なものです。中学と高校で私の性格が変わったわけではありません。そこに集まる人によって、役割が変わっただけです。私より物静かな人がいれば、私は元気かもしれませんし、私より元気な人がいれば、私は物静かなのでしょう。大人しいとか暗いとかそういう言葉はただそれだけの意味しか持ち合わせません。むしろ今の時代は「大人しい」も褒め言葉なような気もしますし、「暗い」というのもミステリアスでなんかいい感じ~とも思っています。
それで、今日一番言いたかったことは何かというと。もし、あなたが何かの集まりに行って、みんなのように話せないと思ったり、居場所がないと思ったら、自分に「役割」をつけてしまいましょうということです。
私も大勢の場は苦手ですし、どうやっても中心人物にはなれません。だから「壁の花になろう」と思っていることが多いです。それじゃつまらなくない?って思いますよね。基本、つまらないと思うなら参加しません。でも、そうもいかないときもありますよね。それでも無理に話そうとは思わないのです。
一言も話さなくても、「今日は誰一人傷つけずにやり切れた~」と思って終了です。壁の花じゃ味気ないのであれば、とことんホストになって「今日は聞くに徹する」とかでもいいと思います。私は、そんな風に、自分の持った素質を役割に変えて、ゆるやかに楽しんでいます。
じゃあいつも話したい気持ちをがまんしているのか?という問題ですが。私は、ここに書く場所があります。だから、ちっとも苦しくはありません。むしろ、こうやって好き勝手書いているから、人の話を聞くことができるのかもしれません。私はこの生き方が、とても気に入っています。
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