明日があるさ

小さい頃から、何でも予定通りにこなさないと気が済まない、落ち着かない癖がある。生真面目、心配性、考えすぎ(人からの見られ方、これ言ったら人がどう思うか)とかいった部類のやつ。
『一リットルの涙』に感化されて始めた日記は小学校の六年間毎日欠かさず続いたけど、決して好きだからとかじゃ無い。いや、好きだったから続いたのかもしれないけど、続けなきゃいけないって気持ちの方が大きかった。友達の家にお泊まりに行った時に、泊まっちゃったら今日中に日記が書けないどうしようって泣き喚いて家に出戻りしたのをすごい鮮明に覚えている。今考えたらもちろんそんなの次の日にでも書けばいいし、お泊まりに行く前に逆算してノートを持って行くなりメモしておくなりすればいいような些細な事なんだけど、そんな思考も持てないほど小さい時からとにかく決めたことをやり通さないと気が済まない。
周りの人はこんな性格を素晴らしいと褒めたり羨ましがったりする。だけど自分にとっては一番嫌いで一番捨てたいのに捨てたら自分の価値が無くなると思ってしまうっていう矛盾の塊の厄介な部分。本当は何も考えずに毎日気楽に生きたいし、自分に過度な期待をかけるのをやめたい。
でもダンスと勉強だけはこの性格にすごくフィットした。なぜなら計画立ててその通りにやればやるほど努力の仕方が分かっていくから。そしてその成果が目に見えやすいから、自分の皆無に等しい自信をなんとか取り繕うことが出来た。普通コンテストに出まくってるバリバリのキッズダンサーだったら、「学校のテストなんて」とか思って勉強を真面目にしたりしないし、「ダンサーになりたいんでしょ?なんで勉強ばかりするの?」っていうステージママも周りに多かった。だから、勉強も頑張らないと気が済まなかった私にとっては、中学生時代は本当に辛かった。中学校に上がる前、小学6年生の時の担任の先生に中学校の勉強は驚くほど難しい。努力しないと一瞬で置いてかれるって脅されてそれをただただ純粋に、真面目に受け取って中学の一番最初のテストの時にものすごく頑張ってしまった。自分的にはそこまで頑張った偉いとかいう感覚はなく、ただ地頭悪いから人に置いてかれるのが怖くてがむしゃらにやったら思ったよりみんな勉強してなくて、10番以内になってしまった。みたいな。最初にそういう地位を築いてしまうと、それ以下になることが恐怖でしかなくなるから、どんどん追い込んで自分の首を絞めていく。
そうするとコンテストで何度も優勝してチヤホヤされてたキッズダンサー時代を知る人は、勉強ばかりしてる私にどうしちゃったのと言ってくるし、親にも勉強ばかりしてないでソロコンテストとかバトルに出たりオーディション受けたり結果を作りなさいって言われてた。じゃないとどうやってダンサーとして食べていくのって。でも15歳の自分の中ではもうコンテストで優勝する、有名になる、ダンサーになるって言う道筋に違和感しかなかった。

自分でも合ってるのか分からなかったけど、結局勉強も頑張ってたことで高校は地元の凝り固まった世界から出た広い世界に行けたし、キッズダンサーのレッテルも薄れてきたことで大分楽になった。自分の可能性を広げることは出来たと思う。そして小学生のころ「何を書くか」ではなく「ちゃんと毎日書いてるか」を重視しすぎた日記を、今ではメンタルケアとしてちょうど良い距離感で続けることができてる。毎日書かなきゃと思うと性格上日記が努力の対象になってしまって、溜まった思考を癒すはずが逆に首を締めることになるから、書きたいと思ったタイミングで溜まったことを衝動で書き殴ってスッキリするって言う今の距離感が好き。
このnoteも、そんな距離感にしたい。まだ書かなきゃって思ってる。書かなきゃって思うと逆にいい文章にしようとしすぎて頑張っちゃうから、頻度が少なくなる。習慣化して書く曜日を決めようかとも思ったけど、きっと私の性格を考えたらそれでは癒されないんだ。
予定通りに物事が進まなくても、それを乱した自分や人に対して「明日があるさ」って思えるような心の隙間がほしい。そんな自分になりたくて、紙に書き写して自分の部屋の壁に貼ってる吉本ばななのエッセイを最後に書いておく。

 「明日があるさ」
 私たちはいつの頃から、こんなにもなにか高みを目指さないといけなくなったんだろう。
 いつから、少し先を見越して対策を立てていないといけなくなったんだろう。
 のんびり生きたら社会的落伍者みたいに思われてしまうようになったんだろう。
 きれいな身なりをしていないと行けない場所があることは、そしてそこに行けないことは、いつのまに恥ずかしいことになってしまったんだろう。
 別にいいではないか、全く社会に参加しないと言っているわけでもないが、飼い殺されるわけでもないよというところをちょうどよくバランスしていれば。
 逃げ続けるのは簡単だけれど、その労力を使うくらいなら昼寝していい気分になっても同じことだ。
 生きていける分稼いで、自分にとって快適な環境を知恵を尽くして探して、探求していく道の半ばで命尽きればいいのではないだろうか。
 明日できることは明日やると言う程度のゆるみでは、仕事が全くできなくなったりはしない。どこかでむりをするとあとで必ずそのゆがみがなにかの形で現れる。
 その法則さえ本気で信じていれば、何も怖いものはない。ワクワクした気持ちでフレッシュなエネルギーに触れることも楽しみになる。わくわくしないからこそ不安だったり保身ばかり考えたりするのではないだろうか。
 体のスピードは人それぞれ。それぞれがそれに忠実に生きて、手を抜かずかといってむりもせず、むりをしたら数日かけてそれを取り戻し、熱が出たら素直に休み、それが出来たらもう少しみんな他者に影響されすぎずに生きられるのではないだろうか。
 急に怒鳴る人や、寝不足でいつもだるそうな人や、飲みすぎていつも昼間つらそうな人を見ているととても悲しくなる。その人が自己啓発や健康についての勉強をしていたらなおさらだ。
 よく寝て、健康で、時間もたくさんある感じがして、たくさん考え事もできて、もし考え事が嫌いな人はたくさん体を動かして、お金も贅沢まではいかなくても毎日の細々したものを好きに買える程度にはあって、たまに旅行に行けて、困った時に少しまとまったお金が出せたり借りられる程度には信用や貯金があり、毎日していることが割と好きで、さてでもここは一番ふんばるかな?というときが自然に来たら意外に思わぬ力が出せたら、結果少し高みに登ることができた気がする、、、そのくらいでいいのではないだろうか。
 浮き足立ってさっさと登る山よりも、確実な歩みで難所を越えることができた方がいいのではないだろうか?思い出が増え、豊かになり、体力がつき、そして意外な時に意外な助けが来るようになる。その方がいいのではないだろうか。
 頂上についた時、隣の高い山を見て「ああ、まだ登らなくては、隣はもっと高い」と言う気持ちになるよりも「大変だったなあ。でも、いろいろあって、面白かった。よくここまで来た。下山して、ゆっくり休んで、心から登りたくなったらまた隣にチャレンジしよう。したくならないかもしれないけど、そうしたらしなくていいか」というほうが豊かではあるまいか?
(『イヤシノウタ』吉本ばなな著、2018年、新潮文庫)
 


 

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