こんなもんでいいや

すべて自分で選択して好きなことをしているはずなのに、忙しくなってくるといつの間にか「したい」や「やってみよう」ではなく「しなくちゃいけない」にすり替わっている。自分の気づかない間に自分で自分を「やらなくてはならないこと」でがんじがらめにしている。

ここ二か月はそんな盲目が故の忙しさがずっと続いて、すぐには結果の出ないことやコツコツ続ける習慣、身の周りの大切にしなければいけないこと、生活を蔑ろにしてしまっていた。分かるはずもない遠い未来の想像や新しく始めたことに対する漠然とした不安をどんどん肥大化させてそれで頭の中が容量いっぱいになり、現実を見る冷静な視点がなくなっていたのかもしれない。結果ストレスをため込んで蕁麻疹ができたり、耳鳴り、火照りが続いて何もかもやる気がなくなる症候群に陥っている。このnoteも、書くと自分の感情が解放されてすっきりするはずなのにどんどん先延ばしにしてしまう。好きなはずなのに。やるまでが何事も腰が重い。億劫だ。

「やらなければいけないこと」だと思い込んでいる物事が好きなことのはずである比率が学生の頃よりも(一応まだ学生だけど)高くなっているはずなのに、どうしてこんなにも不安なのだろう。将来の見えない漠然とした不安があるから、「やりたいこと」を「やらなければいけない」という捉え方にすり替えてスケジュールをいっぱいにして安心したいのかもしれない。人間、学校や仕事などのある程度規則性のある「やらなければいけないこと」が少しはないと逆に不安になるような洗脳を受けていると思う。

未来に保険ばかりかけず、毎日お散歩して本を読んで音楽を聴いて、踊りたくなったら踊って、ゆっくりご飯を作って食べて、アイディアが溜まったら書き出してみたりして。そんな毎日を送りたいと思っているのに、どうしても何かしらのタスクをこなさなければいけないような気がしてしまう。何をするにも人より時間がかかることをいちいち責めてしまう。

「何をするにも時間がかかる」と検索して、”「時間がかかる」と考えるのではなくて「時間をかけている」と考えるようにしましょう。”というネットの記事にまんまと救われたこともあるくらい。一人として同じ時間軸で生きている人間などいないのに。それぞれが自分の時間を持っている。それをどう使おうと、本来は自由なはずなのだ。忙しく使いたい人だけ使えばいい。ゆっくり使いたければ使えばいい。学校やサークル、会社などの団体に所属してしまうと、どうしても自分の時間を他人に合わせなければいけないから苦手だ。軍隊と何ら変わりはない。すべての執着や束縛から解放されたい、ほっといてほしい、誰も自分のことを知る人がいないところに行ってみたいと思う事なんてしょっちゅうだけど、周りの言葉を気にしすぎて考えすぎて面倒くさくなって、結局絡まりに行っているのは自分なのである。面倒臭い周りの野次なんて気にも留めてやらなければいい。または捉え方次第ではポジティブなエネルギーにも変えることができるはずなのだ。

団体行動で周りの人に遅れないようにすること。周囲の意見に合わせること。大きな流れに逆らわないようにすること。大体の人が幼稚園から大学までの約20年間も決められた時間の枠組みの中でカリキュラム化された生活を送ってきているのだから、そんな洗脳で凝り固まっているのは当たり前なのかもしれない。

集団で束縛されるのが嫌だからと言って、自立できるだけのお金が稼げれば、地位や名誉があれば不安がなくなるのか。納得のできる働き方が見つかればいいのか。好きな自分になれれば、誰かに認められればいいのか。沢山の面白い人脈があればいいのか。知識や技術が豊富になればいいのか。

不安が全く無くなる日が来ることなんて一生無いという事はわかっている。何かを成し遂げてもまた新たな不安は出てくる。人生において、何事も不安なく過ごすことのできる日は何割あるんだろうか。不安が一切無い日常は、それはそれで退屈なものである。何事も自分の捉え方次第とは、よく言ったものだ。何者になっても、何を得ても、絶対安心なんてないのだとしたら、自分の考え方を変えるしかない。

「こんなもんでいいや」

この言葉は、どちらかというとマイナスの印象を受ける言葉だろう。怠惰・惰性・横着・責任放棄など。「もっといいものができる・もっと時間をかけることができるけど、面倒くさいから適当でいいや」というニュアンスで使われることが多い。しかし性根がクソ真面目な私が最近気が付いたことは、「こんなもんでいいや」というくらいで切り上げて肩の力を抜いて取り組んだ時の方が上手く行くという事。

よくある成功体験を記した本や、即効性ばかりを求めた自己啓発本では一発で却下されそうな考え方だが、結果や利益、実用性ばかり求めるよりも自分の精神の健康を自己管理できることの方がよほど大切であるという事に気が付いた。

「適当」という言葉の本来の意味は、

1.ある性質・状態・要求などに、ちょうどよく合う事。ふさわしいこと。
2.度合いが丁度良いこと。

である。
日常的なシーンでの「適当」は、「いい加減で中途半端」や「手を抜いている」「がさつ」という派生した意味で用いられることが多いが、ここでは本来の意味に立ち返りたい。

「適当」に本来の意味と派生した意味の二面性があるとしたら、「こんなもんでいいや」にも二面性があっておかしくない。

「こんなもんでいいや」=「適当でいいや」=「丁度良い」

という方程式を身に刻んでいこう。take it easy!!

二か月振りに書くと、書いているうちにこれもあれも書こうと何度も脱線して何度も修正してを繰り返してしまう。話はまとまらないし、自分でも納得できるものにならないのでやはりちゃんと習慣的に書きたいな。そんなこんなでこの二か月ぶりの記事は、書き始めから今日まで一週間もかかってしまった。そして結果対して納得していない。

これを書いている途中の昨日、毎週月曜日の習慣である「しいたけ占い」を読んでいると、「丁寧疲れが起きてきているから、『もうこれでいいよ』みたいなセリフを大事にしてみてください」「いい加減がテーマ」「できるだけ、義務の時間を人生で減らしていくことがテーマ」って書いてあって、さすがに鳥肌が立った。勝手に共鳴した気分になれた。自分すごいこと書いてるんじゃねみたいになった。黙ります

とりあえず、これからは好きなことを「やらなければいけないこと」に変えてしまわないように、義務にならないように、「やる」「したい」「やってみよう」という自分主体の言葉に置き換えて良い捉え方の癖付けをするところから始めよう。もしくは、「そろそろやらなきゃ」と思うまでもないほど自然に取り組めるようになるように、習慣化させることを徹底しよう。そして、どうしても義務に感じてしまう物事には、「こんなもんでいいや」という心構えを。

ああ、気楽に生きたい!

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