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【短編小説】ゴールデン街とちょび髭 

 30代のころに通っていたバーは、その面影すらなくなっていた。白地に青で「美佳」と書かれた看板も、傷と色むらだらけの木製のドアも、いつも値踏みするような目線を外に向けていた老ママの姿も。代わりに、英語で店名が書かれた看板と、新しいドアや外壁の店があった。客の若い男女と会話をしていた店員が、一瞬私に目を向けたが、すぐに視線を客たちに戻し、おしゃべりに興じ始めるのを見て、私はその場を離れた。

 時刻は20時過ぎ。用事があって上京し、せっかくだからと約25年ぶりにゴールデン街に立ち寄ったのに、このまま帰るのは惜しく、連なるネオン看板の下をぶらつく。私が通っていた1990年代と比べると、ゴールデン街は驚くほど明るく、整然とし、人も多くなっている。若者や外国人の姿も見かけ、そういえば観光地として有名になっているのだと、テレビで紹介されていたのを思い出した。当時、「危ないから女一人でこんなところに来るんじゃないよ」と、美佳のママや酔客たちに叱られたのが懐かしい。

「へえ、大先輩じゃないですか!」

 店主と女性客がそろって意外そうな表情を浮かべた。入りやすそうなバーに飛び込み、かつてゴールデン街に通っていたことを話したのだ。共に30代で、ゴールデン街歴は5年にも満たないという2人にとって、私は大先輩と映ったようである。

「といっても、私が通っていたのは2~3年だけで、決まったお店にしか行きませんでしたから。結婚で東京も離れちゃったし、ゴールデン街には25年くらい来ていないから、むしろ新人です」

 私はそう言い、ビールを飲みながら、お通しの乾きものをつまむ。美佳ではキュウリの漬物がよく出て、一切れつまむと万国旗のように連なっていたのを思い出した。どこの店に通っていたのか聞かれ、美佳だと答えたが、二人は知らないという。当時、ママはすでに90歳近かったから、かなり前に閉店してしまったのだろう。ママに不倫をとがめられ、口論になって飛び出してから、行かなくなってしまったのが少し悔やまれる。

「昔、ゴールデン街はぼったくりバーとかおかまバーとか、怪しいお店ばっかりだったって聞くんですけど、そうだったんですか?」

 好奇心旺盛な様子の女性客が言う。

「どうだろう。私が来ていたころは、そういうお店もたくさんあったと思うけど……」

 記憶を巡らせると、苦い出来事が蘇った。美佳の常連に連れられ、おかまバーに連れていかれたこと。顔を真っ白に塗りたくったおかまの店主に、「ブス」「バカ」と罵倒され続けたこと。お会計で「女は別料金」と1万円を請求されたこと。常連客は酔いつぶれ、おかまの膝で気持ちよさそうに眠っていたこと。怒りと屈辱で泣きながら美佳に戻ると、ママはマジックペンを差し出してこう言ったのだった。

「あんた、泣くんじゃないよ! ヒゲを描いてもう一遍行ってきなさい。俺は男だ、ぼったくったら承知しないよ、ってね!」

 本気か冗談か定かではなかったが、私は吹き出してしまい、加藤茶のようなちょび髭を描いて、美佳で朝まで飲んだのだった。そのことを話すと、女性と店員は手を叩いて笑った。

「こんちは~!」

 スーツ姿の男性客が入ってきた。常連らしく、メニューも見ずに注文をすると、「何の話で盛り上がってたんですか?」と入ってくる。彼としばし話し込んで、ふと女性客の方を向くと、鼻と口の間にちょび髭が描かれていた。店主の手にはマジックペン。私の話に便乗して悪ノリが行われたようだった。

 それを見た男性客が笑い、「そこのちょび髭おじさんに僕から一杯! あ、マスターにも!」と声を張る。時刻は22時を過ぎていた。街はますます賑わいを増したようで、ドアの外を上機嫌そうな酔客が次々と通り過ぎる。ギターを担いだ流しの姿もある。

 ふと、数十年前のゴールデン街の雰囲気や喧噪が蘇り、タイムスリップしたかのように全身を包んだ。だがそれは一瞬のことで、すぐ我に返った。店員や客たちの楽しそうな表情を見渡しながら、私はビールのお代わりを注文した。(文 コエヌマカズユキ)

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