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試し書きSS『ミート・ザ・ルーツ』

まずは一応エンドマーク付きで。
2021/11/24タイトルつけました。


ミート・ザ・ルーツ

 あのセミナーはクソだわ、もう行かない。
 ミチコは駅の階段にパンプスのヒールを打ち付けながら下りていく。
 北口はもう夜だ。ロータリーに客待ちのタクシーが一台と、まばらな人通りに、コンビニ前では深刻ぶった顔を突き合わせているカップル。電車の冷房で冷えた体に、生ぬるい夜風がまとわりついた。
 適度な運動。セミナー講師が発した言葉のうちでも常識的なアドバイスを思い出したわけではないが、家まで歩こうと決める。どうせバスもない。
(ええそうです、細胞をね、許して共存するんです、ね)
 ひとあたりの良い顔と、耳には心地よい声が脳内で再生される。
 病気になったのは神様があたえた試練、神様は乗り越えられない試練はけして与えない、という手垢のついたお題目を唱えるセミナーは先月の。二回目で飽きて辞めた。
 今回のセミナーは、共存と、先祖返りをしつこく繰り返していた。
 ストレスで死にかけたあなたを救うため、より生命力の強い状態に先祖返りしたのが、病気の細胞なのだと。あなたを生かすために先祖返りした細胞を、慈しみ、愛し、許して共存するのです、だって。
 なんてバカバカしい。
 先祖返りで、よりセイメイリョクが強いといったら、ゴリラじゃないの。ミチコは手術してから濃くなった気がする体毛のことを考え、鼻の頭にシワを寄せる。
 三回で二万二千円。安いと思ったけど、安いなりだわ。次もゴリラの話をするなら、三回目は行かない。
 小石を踏んだらしく、足元が滑り、地面をこするイヤな音がした。
 イライラと信号を待ち、下りたシャッターの前を通り過ぎるとき、うずくまる人影があるのに気付いて身をすくめた。
 足は止めない。きっと酔っ払い。絡まれてたら厄介だ。気付かなかったそぶりで通り過ぎる。何故か胸のあたりがひんやりした。
 男は灰色っぽい服だった。スーツだったのか作業着だったのかも分からない。見ないようにしていたから、男という性別くらいしか、視覚情報には残らなかったはずだ。
(なんなの、あれ……)
 酔っ払いが道端で座り込んでいるくらいで、いちいち怯えるほどミチコはもう若くない。それなのに、振り返って確かめたい欲求と、それを押し止める本能的な力があった。
 あの男、大きな猿のぬいぐるみを抱えていなかっただろうか。
 それともゴリラ。デフォルメした可愛らしいタイプではなく、かなりリアルな。
 セミナーを出て地下鉄に乗ったときの光景を思い出す。明るい車内で、似たようなリアルな猿かゴリラのマスコットが、誰かのリュックにぶら下がり揺れていたのを見た気がする。
 流行っているのかも。きっとそう。
 でも、と足早にそこを離れながら思う。
 あのマスコットは「そこそこ」リアルで、さっきあそこに座り込んでいた男がしっかり抱いていたのはそんなものじゃなかった。可愛げもなにもない、抱きかかえてなければ剥製かと思うほど、本物じみていた。黒い毛、灰色の顔、特徴的な額と口。
 さっきの男、ゴリラを抱きしめていた。
(まさか。バカバカしい)
 そういえば、人間の先祖返りはゴリラじゃなくて猿だったかもしれない。
 そもそも猿とゴリラは違うの? 昔、類人猿にあてはめる性格診断が流行って、ゴリラとチンパンジーと、あと車の名前みたいなのがあった気がする。じゃあ、きっと似たようなものなのだろう。猿は猿だ。
(先祖返りだって。バカバカしい)
 何度目かの、セミナー講師への悪態を繰り返す。
 不意に、キャッキャという高い音が、耳に射し込んだ。
 自転車の急ブレーキのようでもあるし、猿の鳴き声に似ていたようでもある。
 きっと猿のことを考えていたせいだ。空耳に決まってる。止まりかけた足にぐいと力を込めて前に踏み出す。
 また、キャキャッ、と高い、複数の鳴き声。
 今度こそギクリとなって振り返る。
 国道沿いの、信号待ちで停車している車の列のなかで、ルームランプが煌々と点いている一台が目に入った。
 車内に、ぎゅうぎゅうに乗り込んでいる若い男たちの顔が見えた。全部こちらを向いた顔の、目と口が丸く開いている。
 慌てて顔を前に向け、早足で歩き出した。
 目が合っただろうか。突然歩行者が振り向いたから、向こうも驚いてこちらを見ただけかもしれない。でも、たちの悪い連中なら、信号待ちの今なら降りてきて難癖つけられるかもしれない。
 交差点まで振り返らずにどんどん歩きながら、ゾッとした。
 あの車に、何人乗っていただろう。普通、あのサイズの車は定員五人。絶対に、六より多い顔がこちらを向いていた。
 いや、あんな一瞬に、何人だか数えられたりはしない。それより、全部同じ顔に見えた気がする。いや、それだって一瞬しか見なかったからだ。個々の判別などできるほど注視しなかった。見ていることを悟られないよう、ちらりとそちらへ目を動かしただけだ。
 でも、と竦みそうになる足を踏みしめる。
 さっき見た光景が、フラッシュバックのように頭をよぎる。全員、顔のまわりが、頭だけじゃなく頬から顎のあたりまで、ふさふさと茶色っぽい毛におおわれていた。猿の顔だった。感情の伺い知れない、六つの先祖返りした顔。車の中に押し込められた、毛むくじゃらのオスたちの、個性のない赤ら顔。チンパンジーとニホンザルの違いなんて分からない。ルームランプに照らされて、オレンジがかって見えた。
 振り返って確かめたい。でも、猿の顔、六匹の猿はこっちを向いていた。振り返ったりなんかして、本当にあれが、本当の猿だったら。
 振り返らないまま交差点にたどりつき、また信号待ちをしながら、追ってくるような足音がないか耳をすませる。視界の端まで注意を向けてみるが、あの車はずっと後ろのはずだ。
(疲れてるんだわ)
 ミチコは目頭のあたりを摘んで揉んだ。
 熱いお風呂に入って、今日は早く寝よう。セミナー会場の椅子が硬かった。心臓がドキドキするのも、今日は座りっぱなしで運動不足のせいだ。
 交差点を渡り、あの車が逆走でもしない限り追いかけてこられない方へ曲がる。もちろん、大猿が六匹も乗ってたなんて思っていない。見られている気がして、不安になっただけだ。それにここから家までは、街灯のまばらな細道で、両脇の家々はすっかり明かりが消えている。暗い道は、誰だって怖い。
 それにしても、暗い。このへんの住人はみんな、いくら何でも早寝過ぎないか。たまたま面白いテレビ番組がない日なのだろうか。
 今は静まり返った道には、古い油を使ったような揚げ物の匂いがした。こんな時間に料理だろうか。どこの家だろう。絡みつく脂の匂いに顔をしかめる。風もないから、どこまでも匂いが纏わりついてくるようだ。
 少し先に、街灯ほどではないものの、ほっと息をつける程度には明るいアパートの常夜灯が見えてくる。ミチコの家はそのすぐ近くだ。パンプスの音が響くのも構わず、オレンジ色の二つの灯りの元へ足が早まった。なにしろこの通りは暗すぎる。
 その灯りの下に人影を見て、舌打ちの形に口元を歪めた。
 アパートの住人だ。小さな赤ん坊を抱いているのを見かけたこともある夫婦で、どちらももう一人生まれそうな腹をしている。外ではだいたい突っ立ってタバコをふかしていて、向こうからは挨拶もしない。
 いつものようにさりげなく顔を背けながら二人の前を通り過ぎようとした。
 そういえば、二人ともタバコを吸いに出ているということは、赤ん坊は部屋で寝ているのだろうか。ちらりと目線を動かして、元に戻す。
 タバコの煙は二人分、オレンジの光の中に漂っていて、こちらへ背中を向けている男の方が、赤ん坊を抱いていた。肩口に、小さな顔があごを乗せている。
 なんて非常識。赤ん坊を抱いてタバコなんて。
 一瞬だけ視界に入れた赤ん坊の顔に、遅れてギョッとなる。
 黒々とした、とにかく真っ黒な目。狭い額と突き出した口元。ふさふさとした毛で縁取られた顔。
 残像しかない赤ん坊は、まるで、いや、まさか。でも、それなら二人ともタバコを吸っていたのは、あれが人間じゃないなら納得、いや、そうじゃない。
 心臓が脈打つのが聞こえる。呼吸がしにくい。
 赤ん坊を抱きながらタバコを吸うほど非常識な隣人だとは思いたくない。だから、きっと、赤ん坊を見間違えただけだ。さっきの車と同じ、見間違い。ほんの一瞬しか見てないから。きっと赤ん坊用のぬいぐるみだ。ものすごくリアルな……猿の。
 やっぱりあのセミナーはクソだ。手がふるえる。ドアの鍵穴に、鍵がうまく差し込めない。
 ガチャガチャやっている音を聞きつけたのか、ドアの向こうでバタバタと駆け寄る気配がした。
 きっと中から開けてくれるだろうと鍵を諦めたとき、ドアがゆれた。内側からドアに、なにかがぶつかってきたように。動物のような重量感がドア越しに伝わる。ハッと身構える間もなく、解錠される音と、開きだしたドアの隙間から漏れだす声。
 キャキャッという高い声。


end
2021/09/12
2021/11/24タイトルのほか、文章微修正。


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