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海底と空洞の目 1

 自称霊感少女というやつ。あそこがなんだかイヤだと言った瞬間から、私も私も、と賛同者が一挙に押し寄せた。祭りでも始まったかの勢い。確かに暗く人気の無い場所は気味が悪い。でもさぁ、あそこで自殺者が出たとか、聞いたことない話をでっち上げるのは違くない? 調べたわけじゃないけどさぁ。地縛霊がどうとか、今まで無かった事実がいきなり現れて、こうも話題を掻っさらうのはなんだか作為的。みんなの顔も興奮気味で楽しそうだ。

 ウソ、とは言い切れないけども。限りなく嘘くさい。まあ、どっちでもいいけど話が大きくなるのは面倒。どうせ授業が始まれば終わる話ではあるけれど、いつぶり返すとも分からない。気怠く遠巻きに眺めていたら、後からやって来た転校生と目が合った。……ような気がする。何故かというとこの転校生は、顔を上げていてもどこを見ているのか判然としない目をしているのだ。暗く、遠い、深海を思わせるような。

 その目に小さな光が反射する。吸い込まれそうに際立つ黒さ。気付けば隣に立っていた。我に返った瞬間、チャイムが鳴る。バラバラだった生徒が一斉に並び始める。

 合唱の練習はひとつの空き教室で、パート事に分かれて行っていた。私と彼女はアルト担当で、その中では二人とも背が高い方。最後列で横並びになる。隣に立つのはごく自然なことだったが、当たり前のように近付いてきた転校生に釘付けになってしまったのは、油断していたとしか言えない。だって、目が合った気がするんだよ、合ってなさそうなのに。

 吉家よしいえ節子、という古風な名前の転校生は、常に瞳に虚無を湛えていた。長く真っ直ぐな黒髪に、整ってはいるがニコリともしない顔は無を漂わせ、誰からの侵入も影響しない意思を感じさせる。つまり彼女は、とても中学二年生とは思えない、他人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。だから誰も近寄らないし、かといって邪険にされるでもない。そんなことしたら「何か起こりそう」。そう言い出したのもあの自称霊感少女だった気がする。

 私と節子は出席番号が後ろと前で、担任は始めから私に彼女の世話を任せるつもりだったようだ。それは分からないでもない。多分この子、他の子では手に余る。ノリが全然違う。私も別の意味で違う自覚はあったので、要するに浮いた者同士上手くやれよということだろう。そこは納得しているから別にいい。そもそも、あれこれ説明して案内して、世話という世話をしたのは最初の数週間くらいだ。たいした手間じゃなかった。

 ただねぇ、何というかこの子、存在感がありすぎて。ありすぎてみんな意識しないようにしていて、浮いていないように努めるがゆえに浮いている、不自然な異分子になっている。若干ズレ気味の私ですら多少動揺してしまうくらい、それはちょっと悔しいことなんだけど、なんとも抗えない気配がある。この子に近付いてはいけない、というような。

 横で歌う声は思いの外伸びやかで、今でこそ慣れたけれど始めはそれにも驚いた。特別巧いわけでもないのに、妙に引き付けられる。意外性だけではない気がする。

 転校してきて既に何ヶ月も経過しているというのに、未だ彼女は分からないことだらけで、かといって踏み込むつもりもなく、ただ興味はある……という中途半端な状態だった。本人が人と距離を置いているし、私自身も、人懐っこいタイプではない。ただ眺めているくらいでいいだろうと思っていた。

 放課後になり、ちょっと行ってみようよ、と話しているのが聞こえた。クラスで目立つタイプの子だ。自称霊感少女が横から、やめたほうがいいよ、と止める。じゃあ一緒に行ってよ~。というお決まりの流れ。数人が例の「なんだかイヤな所」に向かった。この学校は一部が旧校舎に繋がっていて、その場所はさっきの空き教室から見える、連結廊下の外側にある物置の陰だった。

 行きたければ好きにしたらいいし、そこで何かが起こっても知ったことじゃない。というか何もないだろう。気にせず帰ろうとしているとき、職員室から出てきた担任に声をかけられた。空き教室の机を元の位置に戻したか問われる。合唱の練習のために机は教室の壁際に寄せていたが、そういえばそのままだった気がする。
「悪いけど、二人で戻してきてくれないか」
 二人とは? 担任の目線に振り返ると節子がいた。何という偶然。断る話でもないし、私たちは空き教室に向かった。

 教室は昔から使われていないため、机の数も少なかった。端から順に中央へ直せばいいだけだ。私は窓側から、節子は廊下側から。練習前にみんなが騒いでいた場所は必要もないのに物が避けてあり、そこを埋めるべく机を持って移動していると、件の一団が目に入った。話し声らしきものは聞こえるが、何を話しているかまでは分からない。

 私はなんとなく、節子に訊いてみた。
「ねえ、あれ、本当だと思う?」
 後ろを向いていた節子が振り向く。少し驚いた顔をしていた。たぶん。表情筋が動かないのか動かしたくないのか、いつ見ても無。僅かな違いを読み取るのは至難の業だ。
「何かいると思う?」
 さらに尋ねる。視線が外に向かった。暗く、深い、穴が空いてるみたいな目。深海を照らす光は日陰で消えていた。

 じっと見詰めているのを黙って待った。ほんの数秒なのに、時間が止まったような長さを感じる。私は節子を見ていた。節子はあの場所を見ているはずだ。目線が少しだけ動く。分析でもしているような、探る目をしている。気のせいとは思えない。いつもとは何か違う、急に黒さがより鮮明になった気がした。怖い、というのとも違う、異質さ。不気味ではないけれど、普通じゃないと思わせる力強さ。

 この子、何を見てるんだ……?

 節子が目を閉じる。瞬きよりも遅く瞼が上がると、いつものどこを見ているのかよく分からない暗い目があった。今のは何だったんだろう。気味の悪さより、不思議さがまさった。自称霊感少女の目より、この子の目に映るもののほうが気になる。
「幽霊がいるかは分からないけど、嫌な感じはしない。暗いだけ」
 思いもよらないセリフが節子の口から出てきた。私は吹き出す。こんなにはっきり否定するとは。暗いだけ、そうだよね。笑いが止まらない。

 やっぱそうだよねえ、と言いかけたとき、節子の目が一瞬見開いた。口が小さく開かれて、あ、と声が漏れた気がした。反射的に振り返る。自称霊感少女たちは先程と変わらず何かを話している様子が窺えるが、おかしな行動はしていないように見える。
「何?」
 向き直り節子に尋ねた。なんでもない、と答えるが、どことなくばつの悪そうな顔をしている。ように見える。これ、やらかしちゃったんじゃないの。やっぱり何か見えてるんじゃないの。そう追求してみたいけれど、きっと認めないだろう。

「何もいないよね?」
「さあ。分からない」
 目を逸らして、最後の机を持ち上げる。誤魔化しているような、今まで見たこともない態度に少し笑ってしまった。
「じゃあ帰ろうか」
 私は節子を促して先に廊下に出た。背後で嬌声が上がる。何かと思えば、あの一団がじゃれ合っているようだ。楽しそうで何よりだけど、なんだろう、ちょっと違う雰囲気を感じる。でも何が違うのかよく分からない。

 私の顔を真っ直ぐ見据えた節子が言った。
「大丈夫。なんでもない」
 突然やって来た不安を払拭するような断言。
「ちょっと、嫌な感じになっただけ」
 何が、とは言えなかった。その瞳が、あまりにも暗く、鮮やかだったから。

 見えない何かを、見ている。きっとそう。だけど言わずにおこう。秘密を共有したような特別さを得て、私は吉家節子という人に、初めてちゃんと近付いてみたいと思ったのだった。

わだちさん、勘が鋭い」
 この時の私のことを、後に節子はこう言った。それはもう少し、先の話だけれど。

2024/3/24公開