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海底と空洞の目 2

 見えない不穏が教室を支配していた。見えないのに、火を見るよりも明らか。最初はここまでじゃなかった。でも、確実に始まっていた。それがいつしか、誰にでも分かるような気配に変わった。

 クラス内ヒエラルキーで上位のグループは、どうしたって力を持っている。自称霊感少女の属していた下位グループを自認する人たちは一緒になって騒いでいたはずなのに、今やすっかり下僕のようだ。取り巻く空気が従属を強要しているように見える。あの時から。

 空き教室から節子と二人で見ていたあの場面。何かが変わったと思ったあの瞬間から、対等を装っていた彼らの関係はやはり明確な上と下に分かれた。恐らく、自称霊感少女は調子に乗ってしまったんだと思う。注目されて気分が良かったんだろう。翌日、既に盛られていた話があらぬ方向に捻じ曲がっているのを聞いて、だからちょっと違う雰囲気を感じたのだと分かった。

 曰く、「私の守護霊は強いから、多少のことなら耐えられる」。みんな本気になどしていないのに、きっと本人もそれは承知しているのに、止まらないんだろう。そこに付け込まれてしまったのだ。

 下位グループは面倒くさいことになった原因を苦々しく思っていて、それが一人対三人の分裂を招いていた。四人は仲良くやっていたと思うし、下位、というのも自虐的に言っているだけで、実際はそこまで地位が低いわけでもない。見た目は地味なほうだけど、至って元気な女子たちだ。だけど今は、まごうことなき「下」の扱いを受けている。

 三人のうち、一人は休んでいてあの場に居合わせなかった。なのになんで私までパシられてんの、とその子は不満を隠さない。だけど逆らうことはできない。そうしたらどうなるかといえば、今、まさに目の前で起こっているような事態になるだろう。

 節子の楽譜がなくなったのは一昨日のこと。それが見付かったのだが、例の場所にファイルごと水浸しで放置してあったという。昨日の雨のせいだ。昼休みにどこかへ行ったと思ったら、戻ってきた節子の手には濡れそぼったファイルが握られていた。それは白いビニール袋に入れられていたが、袋が張り付いて透けていて、誰がどう見ても濡れたファイルだと分かる状態だった。

 節子が教室に入った瞬間、異様な空気を感じた。様々な思惑が去来している。とうとうやってしまったかという目線があちこちから特定の一団に向けられて、その先ではにやける者と青くなる者と無表情を装う者と慌ただしい。顔色を隠せないのは自称霊感少女だ。たぶん彼女がやったんだろう。節子に何かすれば何か起こりそう、と言っていたはずだけど、守護霊がいるじゃない、と言われていたのはきっとこのことだ。

 でも守護霊は上位グループからは護ってくれなさそう。じゃなかったらこんなことはしなくていいはずだ。

 節子は周りを映さない瞳のまま、いつもと変わらず本を開いて読んでいた。その変わりなさは何も起こらなかったかのようだ。合唱の練習に手ぶらで来たときも、一応持参するようにとはなっているけど既に覚えているし、必要ないといえばないからなあ、と深く考えなかった。ただ何の気なしにファイル置いてきたんだ? と尋ねたら、見当たらなかった、と返ってきた。あまりにも普通に。

 コピーしようかと尋ねると、時間ないし大丈夫、と断られた。先生も特に咎めなかったし、そのせいか周りも何も言わなかった。だけど幾つかの視線は隣でも感じていた。まさか、と思っていたら、案の定だ。

 それにしても随分あっさり見付かったものだ。昨日は練習が休みで探す素振りもなかったし、今日も休み時間は殆ど教室に居た。昼になってトイレにでも行くのかと思ったら、ファイルを手に戻ってきた。あのビニール袋は用意していたのだろうか。だとしたらあそこにあるのを知っていたことになる。何だかそんな気がする。

「もしかして知ってた?」
 俯いたままの節子に私はこっそり尋ねた。黒い目だけがこちらを見上げる。
「知ってたというか、多分そうだろうなと思って」
 今の教室内に人は疎らで、例の一団も居ない。私は構わずさらに訊いた。
「なんですぐ見に行かなかったの?」
 一瞬の間を置いて節子は答える。困った表情をしたように見えた。
「すぐ見付けたら荒れるから」
 それはそうだけど、だからって放っておくのもどうなの。んん? と微妙に納得のいかない顔をしたら、こう続けた。
「次の日にしようと思ったら雨だったから、じゃあその次でいいかって」
 今度は私が一瞬黙る番だった。えっ、すごい適当じゃない? 思わず笑う。緊迫感がなさ過ぎる。この子にとってはそういう感じなのか、この事は。事態が悪化したらどうしようとか、そういう不安はないんだろうか。暗い瞳からは何も読み取れなくなっていた。やっぱりよく分からない。でも何だか面白い。そう伝えると、彼女はこのときばかりは何が? と不服そうな表情を少しだけ浮かべた。

 放課後、何かを警戒するとかそういったこともなく、節子は早々に帰っていった。いつもどおりだ。私はバスの時間まで間があり、校内をぶらぶら歩いてまた教室に戻ってきた。みんな部活で誰も居ない。と思っていたが、一番奥の机の陰に人が屈んでいるのが見える。そこは節子の席だ。

「なにしてんの?」
 なぜか机に背を向けた状態の誰かに、近付きながら声をかける。私の気配を感じて咄嗟に後ろを向いたのだろう。意味のないことだ。このクラスに長い真っ直ぐな黒髪は、二人しかいないのだ。

 観念して振り向いた自称霊感少女と目があった。私は告げた。
「やめといたら?」
 目を見張って口を開いたのを手で制す。あらぬ事を言いそうだからだ。
「護ってくれるからいいとかじゃなくてさ、嫌なことはやりたくないでしょ」
 虚を突かれた顔で口を開けたまま。思ってもいなかった、みたいな。
「やんなくていいよ、だから」
 説得というつもりはないけど、言いたいことが伝わるだろうか。彼女の行動はどうかと思うけど、責めたところで、とも思う。何も言えなくなった彼女に向けて手を伸ばす。その体がびくりと跳ねる。そんなに怯えなくても。でもそれくらいのことをしていると自覚があるのだ。

 真っ青な顔で硬直している体に触れる前に、なるべくなんでもないよう心がけてこう言った。
「ほい、立って。なんもないなら帰ろう」
 虚脱して座り込んでしまったこの子が、悪くないとは思わない。だからといってむやみに脅しても、恐怖が倍になるだけだ。節子は変わらなかった。ならば当事者でもない私がとやかく言うのもお門違いだ。

 自称霊感少女の手には何も無かった。何をする気だったのかは分からない。追求もしない。二度とやらない保証もない。今はそうするしかない。次に何か起こるならば、もう少し、取り返しのつかない状況にならないように、少しだけでも踏み込んでいこうとは思う。

 帰ろう、と促してふらふらと立ち上がる彼女を支える。こんなに弱々しいのに、よくこんな状態を招いたものだ。自業自得、と思いつつも、気の毒な気持ちにもなった。誰にだってこういうことは起こり得る。逆らえない強い勢力に、負けてしまう瞬間が。

 ごめんなさい、と呟く声に、私は軽く笑った。
「うん、それね、私じゃなくて吉家さんに言ってね」
 節子の顔が目に浮かぶ。あの吸引力の強い瞳で、大丈夫、となんでもなく言いそうだ。きっと明日になったら、その姿が見られるだろう。

2024/4/28公開