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脳を開けても心はなかった―はじめに

 2020年の10月、ノーベル物理学賞の発表をインターネットのライブ中継で見ていた私は、思わず「おお、ペンローズ!」と心の中で叫んでいた。
 予想していたわけではない。むしろ、驚きだったといってもいい。
 英オックスフォード大学のサー・ロジャー・ペンローズは天才的な数理物理学者といわれてきた人物で、この分野では有名人だ。車椅子の物理学者スティーヴン・ホーキングの先輩で、共同研究をしていたことでも知られる。
 その受賞業績は「一般相対性理論がブラックホールの存在を予測していることの発見」。言い換えると、アインシュタインの一般相対性理論に従えば宇宙の進化の過程でブラックホールが形成されるのは必然、ということを数学的に示したことだ。
 素晴らしい業績にもかかわらず、受賞を予想していなかったのにはいくつか理由がある。
 まず、この間まで「ブラックホールはあるんだろうけど、その実在を証明するのはむずかしいだろう」と思っていたからだ。理論だけではノーベル賞はこない。
 ところが最近になってブラックホールの実在は間接的に証明された。ペンローズと物理学賞を受賞した2人は私たちの銀河の中心にブラックホールが実在することを観測によって示した人たちだ。
 2019年には日本を含む別のグループがブラックホールの「影」の撮像に成功している。
 となれば、理論家にノーベル賞が贈られるのは当然といえば当然かもしれない。
 だが、もうひとつ、ペンローズとノーベル賞が結びついていなかった理由がある。
 私にとってのペンローズは、「量子脳理論」の提唱者であり、ノーベル賞が象徴するような「正統派科学」からは一歩踏み出した(もしくは、はみ出した)科学者だったからだ。
 心や意識を生み出しているのは脳の量子力学的な過程である──。これがペンローズの量子脳理論の提案である。
 特に彼が注目するのは量子力学と相対性理論を結びつけた量子重力理論だ。さらに、意識の発生に関わる脳の器官として「微小管」を提案していた。
 詳しくは本文に譲るが、この理論を知った時には、「ええ!」と思った。
 ペンローズ先生、いくらなんでもそれは無茶では? という気分だった。
 なぜなら、微小管は体のどこにでもある小器官で、それが深遠な意識や心を生み出しているとは、とても信じられなかったからだ。
 だが、実のところ、「心や意識」の問題で「ええ!」と思うような説を唱える天才・秀才科学者はペンローズ一人ではない。
 正統派科学で功成り名遂げた後に、意識や心の問題にはまる科学者は、思った以上に多い。
 いったい、それはなぜなのか。その疑問を出発点に『ノーベル賞科学者のアタマの中 物質・生命・意識研究まで』を出版したのは4半世紀前のことだ。
 正統派科学者と心脳問題の関係を追う旅を縦軸に、20世紀の科学の成功と限界を横軸に、量子論から遺伝子研究、脳科学、免疫学、コンピュータ科学、複雑系、さらに「意識や心の問題は科学で解けるのか」という根源的テーマまでを見通した「力作」だった(などと思っているのは本人だけでしょうが)。
 登場人物は天才から変人まで絢爛豪華だし、ちりばめられたコラムにはお得感もあった(はずです)。にもかかわらず、一回増刷したきりで、書店の棚から姿を消してしまった。
 もちろん、そんなことはよくある。
 だいたい、今だから、半分冗談で「力作」などと大口をたたいているが、当時は「こんな本を出して大丈夫かな」「トンデモ本だと思われたらどうしよう」と大変不安だった。
 それから4半世紀。21世紀も4分の1が過ぎた今、改めて読み直してみると、不思議なことに中身はほとんど古びていない。
 一方で、この間に神経科学や人工知能(AI)が格段に進歩し、意識研究に影響を与えてきたことも確かだ。
 新たにこの分野で注目されるようになったプレイヤーもいる。中には、「ええ! あなたまでそんなことを言い出したんですか?」と、びっくりさせられたケースもある(詳しくは本文で紹介します)。
 そこで今回、以前の土台はそのままに、この四半世紀の新たな動向を加え、内容をアップデートすることにした。過去の記述を最大限生かしているが、AIと意識に関わる話は大幅に加筆した。新たなコラムも追加している。
 かつての登場人物は、その後どうしたのか。新たなプレイヤーはどういう人たちなのか。そもそも、意識の解明はどこまで進んだのか。
 意識研究の過去・現在・未来を旅しつつ、天才・奇才たちの意外な素顔・横顔をお楽しみいただければ幸いである。

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