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先生、ヒキガエルが目移りしてダンゴムシを食べられません!―はじめに

ここだけの話だが、私はこのごろ、「人生」について考えている。
(どうだ。今までの「はじめに」の出だしとはちょっと違うだろう。大人っぽいだろう)
今、私が考えていることについて少し聞いていただきたい。

私は今、生きている。そして「自分は○×している」とか「自分は□×と思っている」とか、いわゆる自我意識を感じている。
でも、「人生」の終わりには、これらの自我意識はなくなるだろう。
それを考えると怖い気もする。そして日々の生活のなかでは、死は、文句なく恐怖であり、人はそれを必死で避けようとする。でもじっくり思索したとき、死はそんなに怖いものなのだろうか。
死をこんなふうには考えられないだろうか。
2つ、例をあげてみよう。

1つは、こうだ。
たとえば、5歳のころの(とてもかわいかったにちがいない)小林少年は、今、どこにいる?
どこにもいない。もういないのだ。
5歳の小林少年を形づくっていた体の(器官の、細胞の、DNAの………)素材になっていた炭素(C)や窒素(N)やリン(P)などの物質はすべて(すべてだ!)、もう、新しいものに置き換わっている。もちろん、そのころの小林少年の自我意識を生み出していた脳内神経系を構成していた物質もすべて新しい物質に置き換わっているのだ(ちなみに、神経系という物質から、非物質である“意識”が生み出されるのは不思議なことではない。物質も意識も、ヒトという動物が、進化の産物として備えるにいたった認知内容である。どちらも自然現象である)。
5歳のころの小林少年は、今はもういない。小林少年の自我意識も存在しない。それは「死」と言ってもいいかもしれない。

もう1つお話ししよう。
今、3本の木の棒で三角形をつくったとしよう。「三角形」だ。三角形がここにある。
でも、3本の木の棒のそれぞれを四方八方に動かすと「三角形」はなくなる。そう、なくなってしまう。
そして、それは結局、私の「命」という状態がなくなってしまうのと同じだと考えることもできる。
生命も、素材の、あるパターンの“構造”あるいは“関係”なのだ。「三角形」という構造の場合と同じく、生命も素材の構造なのだ(とてもとても複雑だけど)。

物理学の最先端を歩いているイタリアの量子力学の研究者、カルロ・ロヴェッリは、“物質”も、結局、関係(つまり構造)と考えるほうがより真理に近いことを主張している。まー、背後には大変複雑な理論があってのことだから、一文で表わすのは無理があるだろうが。
でも、「死」というのは、そういうことではないだろうか。
死は怖いけど恐ろしくはない。死は、変化しつづけていく自然現象の一点にすぎないのだ。
子どものころ、「自分は、死んだら、いつまで死んでいるのだろう。永久に死んで意識がないのは恐ろしいなー」と思ったことがあった。でも、今は恐ろしくはない。5歳のころの小林少年がもういないのと同じことだ。あのころの5歳の小林少年が現われることはもう二度とない。そういう状態が、いわゆる死後も、続くということなのだ。
死と同様の現象はすでに身のまわりで幾度も幾度も起こっている。死を恐れる必要はないのだ(納得されない方も、もちろん、たくさんおられるだろう。一仮説、と思っていただければよい)。

今を、力いっぱい、自分がこうしたいと思うことを、こうすれば自分は前向きな生きがいを感じるだろうと思うことを続けていけばいい。

私の場合、できるだけ他人を傷つけず(できれば喜んでもらい)、自分が生きがいを感じるべく、会いたい人に会い、動物たちと接すること、ヒトも含めた動物を研究すること(より理解を深めること)、そして………書くこと………そんなことを続けていきたい。

そして、この本も書いた。
カワネズミのこと、ヒキガエルのこと、ヤギのこと、シジュウカラのこと、ニホンモモンガのこと、スナガニのこと、そして、彼らをめぐるヒトのことを。

私は、故意ではないが、結果的に他人を傷つける。盛って話をする。間違いをごまかそうとして嘘を言う。他人に腹を立てることもある。怒りを覚えることもある。反省することもあり、気をつけようと思うが、内容によっては仕方ないよな、と思う。 でもだからといって、自分が嫌いになったりはしない。そういう性質を備えたのが、ヒトという動物だと思うからである。そういう性質は、進化の産物として生じてきたホモ・サピエンスという動物種の特性の一部なのだ。いわゆる本能としてそういった特性が備わっているということだ(本能だからといって変えられないわけではないということも確かだが)。

話は変わるが、今年の春、日曜日のことだった。
野球部の部員が研究室にやってきて、巣のなかの鳥のヒナが暑さで死にそうなのだと言った。
なんとかしてもらえないか、というわけだ。

もちろん、仕事を中断してすぐ現場に行き、状況を読み取り(行く前に、すでに状況は読み取っていた。私くらいの動物行動学者になると、そして多くの経験を積んでいると、大体読めるのだ)、じつに見事で適切な対応をした。
野球のグラウンドの端っこにある巣のなかに、確かに、暑さで死んでしまいそうなヒバリのヒナたちがいた。私は、素早く、実験室からブロックなどを運び、覆いをつくってやった。もちろん、親が帰ってヒナと接触するまでを見届けて、研究室に帰ってきた。
部員が言うように、その対応がなければヒナたちは死んでいた可能性が高い。
親鳥たちが巣をつくって産卵したあと、悪気はなかったのだろうが、ヒトが草刈りなどをして環境を変えてしまったのだ。それに加えて、異例の暑さが、巣のまわりから草を奪ってしまったのだろう(この話は、また、本などに書くネタになるかもしれないので、このあたりにしておく)。
知らせてくれた部員はやさしく立派だし、小林に言えばなんとかしてくれるかもしれないと思ったところが、またかわいいではないか。賢いではないか。うれしいではないか(進化の産物として生まれたホモ・サピエンスには、そういった、誰かに頼ろうとしたり、頼られることをうれしく思ったりする特性が備わっているのだ)。いい汗をかいて再び仕事に向かった。

そんなことを繰り返しながら、今、私は生きている。これからも当分は、動物たちと、そしてヒトとかかわりあって生きていくのだろう。
そして、100年後には、今の私やヒバリの親やヒナの体の構成素材がつくっていた関係・つながり、つまり体はなくなり、変化という自然現象は淡々と続いていくだろう。

近ごろ、そんなことを考えている。そして教育・研究を行ない、空いた時間で、文章を書いている。ヒトや(ヒト以外の)動物に対する思いは変わらないが、ここまで書いてきたような気持ちが微妙に、本書も含めた最近の文章に影響しているかもしれない。
本書を読んでいただき、ありがとうございます(このあたりまで読んで、本屋の棚に返される方もありがとうございます)。

(後略)

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