見出し画像

計測の科学―はじめに

キログラムの定義見直し

 世界で最初の計測が行なわれたのは、世界で最初の言葉が話されたときや最初の旋律が歌われたときと同様、いつのことだったのかわからない。場所を突き止めるのは不可能だし、想像するのさえ難しい。それでも、きわめて重大な行為だった。何十万年も昔、私たちの先祖の脳で発達した原始の意識のなかに、新たな要素が加わった瞬間である。そのおかげで、私たちは草原に生息する他の動物と最終的に一線を画するようになった。

なぜなら計測は、言語や娯楽と同様に、認知能力の礎(いしずえ)であるからだ。私たちは計測のおかげで世界の境界に注目し、直線がどこで終わり、秤がどれだけ傾くか確認することができる。現実の一部を別の部分と比較して、その違いを説明することによって、知識を支える足場を組んでいく。そうなると、計測はあらゆる建築技術のルーツだと言える。建築物や都市生活を可能にし、定量的科学の誕生を促した。もしも計測できなければ、周囲の世界を観察できないし、実験も学習も不可能だ。計測を通じて私たちは過去を記録し、そこから発見したパターンによって未来を予測する。そして最後に、計測は社会の結合や統制のためのツールである。ひとつひとつの結果をまとめ上げると、部分の総和を上回る。計測は私たちが暮らす世界を作るだけでなく、私たち人間を作り上げてきた。

 私が最初に計測の重要性を認識したのは、2018年にジャーナリストとして、キログラムの定義見直しに関する記事を書いたのがきっかけだった。私はこのときパリを訪れ、国際度量衡局(BIPM)─メートル法を監督する機関─が数十年前から始めたプロジェクトに取り組んできた科学者たちに面会し、インタビューを行なった。そしてここで、1キログラムは18世紀以来、特定の金属塊の重さとして定義されてきたことを説明された。これは物理的な人工物で、いまではフランスの公文書館の地下で容器に入れて厳重に保管されている。世界のあらゆる重量は(メートルを基準としないものも含め)、この単一の基準、すなわちキログラム原器、通称ル・グランKまで遡ることができた。しかし技術が進歩すると、社会で求められる精度にキログラムは対応できなくなった。そこで科学者は定義の見直しを決断し、自然界の基本定数を使うことにした。

しかもそれは実体のある物体ではなく、現実を構成する最も基本的な要素である量子に由来している。実はキログラム以外の現存する他の計測単位はすべて、置き換えがすでに済んでいた。長さ、温度、時間などあらゆるものが、計測を巡る国際的陰謀によって密かに定義を見直されていた。

 この隠された世界の存在は、私にとって新たな啓示だった。ある朝自宅のアパートのドアを開けて足を踏み出すと、そこは未知の惑星で、いきなり奇妙な木々や見慣れない動物の鳴き声に囲まれたかのような気分だった。測定単位のように基本的で平凡なものでも変化する可能性があるという発想はとても刺激的で、学べば学ぶほど疑問は増えていった。そもそも、キログラムはなぜキログラムなのだろう。インチはなぜインチなのだろう。こうした価値尺度を最初に決定したのは誰で、いまはそれを誰が守っているのか。

 こうしてパンくずのように細かい事柄を追究しているうちに、計測とは知性を山盛りにしたごちそうのようなもので、歴史や科学や社会の驚異は素晴らしい祝宴を催してくれたことを理解し始めた。計測のルーツは文明のルーツと深く関わっており、古代エジプトやバビロニアにまで遡る。これらの社会は、建築や貿易や天文学に一貫性のある単位を当てはめることを世界で最初に学んだ。そして新たに発見した計測の力を使い、神や王のために高くそびえる記念碑を建造し、星図を作製した。やがて測定単位は発達し、権威を象徴するツールになった。権力者はこれを特権と見なし、自分の思い通りに世界を組織するために計測を利用した。一方、正確な測定を研究対象とする科学の計量学は、自然界の解明につながった大発見の一部と深く関わっており、宇宙のなかでの地球の位置を見直すために役立った。さらに計測は、社会そのものを映し出す鏡でもある。その鏡を見れば、世界で何が高く評価されるのか明らかになる。計測とは選択であり、ひとつの属性だけに注目し、他はすべて排除される。実は「正確さ」(precision)という単語そのものが、「切り離す」を意味するラテン語のpraecisioに由来している。したがって、計測がどこでどのように行なわれているか詳しく観察すれば、人間の衝動や欲望について研究することも可能だ。

 実のところ私たちの周囲の世界は、夥(おびただ)しい数の計測によって創造された。計測の成果が目立たないのは、文字通りいたるところに存在しているからだ。たとえば、あなたがこの文章を紙と画面のどちらで読んでいるにせよ、その完成した姿は慎重な計量と計算の産物である。紙の原料であるパルプは、木の繊維細胞を解きほぐす際に細胞組織が破壊されないよう、細かく調合された化学混合物を使って作られる。こうして出来上がったパルプのシートを巨大な金属製のローラーに通すと、ローラーは驚くほど正確に回転して厚みを調節し、最後にシートは二本の指ではさめるほどきれいに薄く引き延ばされる。つぎにそれは一定のサイズに切断されてから束ねられ、梱包され計量を済ませると、世界じゅうに出荷される。あるいは、単語を表現するために使われる文字のフォントさえ、慎重な計測の産物である。すべてのセリフ【訳注/文字のストロークの端にある小さな飾り】は長さが正確に決められ、隣り合った文字のあいだの幅は統一されている。そして、あなたがこれをデジタルフォーマットで読んでいる場合には、たくさんの計測がさらに複雑に繰り返されている。まずはシリコンチップに原子スケールの加工を行ない、デバイスのバッテリーの成分の調合も念には念を入れる。あらたまって考えるまでもなく、計測は世界じゅうに満ちあふれている。しかも、秩序を維持するための原則である計測の影響がおよぶ範囲は、見たり触れたりするものに限定されない。この原則は社会の無形のガイドラインでもあり、時計やカレンダーから仕事の報酬や罰則まで、様々なものの参考にされる。

計測するのは人類だけ

 計測は世界に本来備わっている特性ではなく、人類が発明して定着させたものだ。最古の計測には、刻み目を付けた動物の骨が使われた。計測が行なわれた証拠となる発掘品のなかには、1万8000年から2万年前のものと思われるヒヒの腓骨でできたイシャンゴ・ボーン、さらに古いものとしては、およそ3万3000年前のウルフ・ボーンなどがある。これにどんな意味があるのか読み取るのは占いのようなもので、断定できるわけではなく、直感を働かせなければならない。それでも考古学者は、規則正しく刻み目を付けた骨はタリースティック【訳注/古代の記憶補助装置】であり、世界最初の測定器具だったと考えている。

 ウルフ・ボーンの場合、刻み目が5つずつまとまっているが、位取り記数法の多くは5を底(てい)とする。世界各地の文化は、1、2、3、4と数えて5になった時点で、はっきりと線引きをして区切る傾向が強い。これについて心理学の研究では、持って生まれた認知力の限界の影響だと推測している。すなわち人間の思考は柔軟性に優れているものの、5つで区切るのが自然の姿だという。たとえば、人間が一瞥して数を数えられる能力をテストすると、普通は三つか四つのアイテムを数えるのが限界で、それ以上は意識的に数えなければならない。つまり計測する必要が生じる。そうなると刻み目を付けた骨は、人類の野心が脳の能力を上回り、外部からのサポートに頼り始めた特別な瞬間が刻まれたもので、以後はそれが世界じゅうで何度も繰り返されたのかもしれない。これをきっかけに人類は周囲の世界の計測を始め、その結果、世界への理解を深めたのである。

 これらの出土品にどんな現象が記録されているのかわかれば、人類の認知能力が発達を始めた当時、計測という行為がどのように位置付けられていたか、解読する手がかりが提供される。しかし文書の記録は残されていないので、出土品の目的については推測するしかない。ひょっとしたら、ウルフ・ボーンに刻み目を付けた(後略)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?