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「校正」という仕事を「校正」という仕事を選んだ人の観点で書いてみた

校正という仕事を選ぶ人は、物静かなように見えて、内に情熱を秘めている人が多いような気がする。

校正者や校正を仕事にしたい人と話していて、ふっとそれが見えるととてもうれしい。「わぁ、この人のこと好きだわ」となる。

校正という仕事を選んだ人たちと話した機会はあまり多くないけれど、共通して何か“芯”を持っているように思う。

校正という仕事を選ぶ人の傾向から、校正という仕事を見てみることにする。

少し不思議な仕事

校正者はものすごく悩む。言葉や文章に対して、あーでもないこーでもないといろいろ調べながら思いを巡らせつつ、「おそらくこうであろう」「こうしたらより伝わるのではないか」というものを導き出す。それを伝える。

もちろんそれがすべて採用されるわけではない。

それでも、その文章が世に出る前に必要な一つの過程として、この仕事に誇りをもっている人が多いと思う。

それに加えて、「この仕事は自分には向いていないのでは」という思いを常にどこかに抱えている人も多いと思う。

こう書くと少し不思議な仕事だ。

この仕事を選ぶ人は、「向いていないのかも」と「この仕事が好き、おもしろい」という狭間を行ったり来たりし続けるものなのかもしれない。

正解のない仕事

「どこかに正解が書いてあればいいのに」と何度思ったことか。

校正をしているとき、明らかな誤りよりも判断に迷うもののほうが多い。言葉の表現は、特に正解がない。

文章や言葉に何か引っかかるものがあれば、「書き手が伝えたかったことは何か」という視点で違和感を分解していく。

「書き手が伝えたかったことを、確実に読者に伝えられる表現は何か」と思いを巡らせる。

このように、校正は「誤りを正す仕事」ではあるけれど、実際は柔軟性が必要だ。正解がないことが多いから、あれもこれも正すというわけにはいかない。どちらかというと最適解を探す仕事だといえる。

(最初「誤りを正す仕事」ではなく「白黒をはっきりさせる仕事」と書いたけれど、気になって調べたところ語源から考えると「黒白では」という情報があったので、結局「表現を変える」ことにした。「正しさ」を追求するだけではない、柔軟な対応が求められる。特にWebでは)

いくらでも手を抜ける仕事

校正の仕事はいくらでも手が抜ける。

ざっと一度目を通すだけで終わらせることができる。なんなら、校正ツールにかけて「校正できました」と納品することも可能だ。

でもそれを校正者は許せない。

許せない人じゃないと、校正者として長く仕事を続けることはできないと思う。

これは、「そうする人を許せない」のではなく「そうする自分を許せない」ということだ。


一方でいくらでも時間をかけられる仕事だともいえる。一つひとつを調べ尽くす。考え抜く。

そして、それをつらいことだ、やりたくないことだと思うよりも、「あぁ、むしろそうできたら」と思う校正者が多いような気がする。

表に出ない仕事

校正者の仕事は表に出ない。校正者のミスは表に出るけれど。

時間をかけて調べて調べて、調べた結果、そのままで問題ないこともよくある。

文章が世に出るときは、校正者がどう仕事をしたのかがわからなくなっている。でも、校正者が仕事をしたことで、その文章をより良いものにできたのだと信じている。


あまり他者から褒められることのない仕事だけど、自分の仕事に価値ややりがいを感じている。それが校正者の“芯”につながっているように思う。






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