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小説『モモタマナと泣き男』 第8話 

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 夫の紘平が突然、民宿をおとずれたのは、その週末のことだった。
 
 ちょうど庭で洗濯しおえたシーツを干していると、民宿の前にタクシーがとまった。中から降りてきたのは、白いTシャツに黒いスラックスを着た男性で、やや遠目ではあったが、真那は一瞬でそれが紘平だと確信できた。

「来たよ」
 近づいてきた紘平が真那を認識し、声をかける。目が合って、真那の心臓がどきんと跳ねる。シーツを留めないといけないのに、洗濯ばさみが見当たらない。風になびいた白いシーツが、ばたばたと音を立てている。

「……いらっしゃい」
 口にしてすぐに、選んだ言葉がまちがっていることに気がついた。紘平は宿泊客ではない。

 暑さも相まり、口のなかがカラカラになっている。表面上は、ケンカ別れをしたわけでもない。普通に話せばいいだけなのだ。なのに、どうしてこんなに緊張するのだろう。
 紘平もなんとなく張りつめた空気を感じているのか、指でぽりぽりと頭頂をかき、息を吸うと、ぐるりと周囲を見わたした。

「いいところだね、ここ」
「そう? 何もないでしょ」
 否定も肯定もしない顔で、紘平は微笑む。
「まこと、虫好きだから。虫好きには天国だな」
「まあ、そうだね」
 また、紘平と目が合う。真那はさりげなく下を向き、指の背で自身のまつ毛にふれた。今日はメイクをしていただろうか。ひとまずマスカラはしていないようだ。最近は簡単に済ませることが多かった。

「どうしたの? 突然」
 忙しい仕事の合間をぬって、ここまでやって来たのだ。何か理由があるにちがいない。真那は瞬時に、別れという最悪の事態まで想定してしまう。

「きちんとあいさつしてなかったから」
「え?」
「ご両親に」
「え、でもどうしたの、突然?」
 さっきと同じ質問をしてしまい、思わず笑った。紘平も真那につられたのか、左の口端をくいっと上げる。
「どうしたんだろな、突然」

 紘平の実家には行ったことがなかった。入籍当時、実家とは絶縁状態に近いから、あいさつに行く必要はないと言われていた。元妻は心身の調子を崩し、それが主な原因で離婚したと聞いていた。精神的に不安定だったこともあり、まことは紘平が引きとることになったらしい。その頃に、両親とも何かあったのかもしれないが、それ以上の話は聞いていなかった。

 風の強い日だった。モモタマナの葉が、ばさばさと音を立てて揺れている。この木は強風も受けながせるよう、葉を上にではなく、横に広げて立っつのだという。海岸のほうに、まこととサワオの姿が小さく見えた。
  
 真那は、こくんと唾をのんだ。
「紘平と、話がしたかった」
 紘平が、意外そうな目で真那を見る。一重の、切れ長の目から視線を受け、真那はもう一度つよくまばたきをした。

「結婚は、私にとって大きな決断だった。紘平のいい妻に、まことのいい母親になりたいと、思った。それなのに、不安ばかりで」
 ぽつり、ぽつりと、言葉を絞る。

「あたらしいママですよって、突然、たぶんおどおど現れて、まことの無垢な目にさらされて。本当は逃げだしたくて、たまらなかった。自分で決意したくせに。怖くて、情けなくて」
「うん」
 紘平がうなずく。
「母親のふりだけしてる私に、まことが心を開くわけがない。そうやって悩んでるのに、紘平はいつも忙しくしてるし、それに……」
 
 いったん口をつぐんだものの、真那は大きく息を吸い、言葉をつづけた。
「ほかにも、女性がいるでしょう? 紘平の顔を見るのも、もう耐えきれなくなって、それで、ここに逃げてきた」
「え、ま、待って、何それ」
 紘平が動揺している。きょろきょろとふる顔面と、焦点が合わない。こういう顔を見たくなかったのだと、真那はあらためて思った。

「ちがう。それは誤解で」
「帰りが遅い日も、だれかと会ってたんでしょ。匂いも、レシートも。気づかないふりしてたけど」
 追いつめるのは得意ではない。でも、見て見ぬふりをしているうちに、追いつめられていたのは自分だった。

 あれはちがう、と、紘平が必死で首をふる。
「あれは顧客とのつき合いで、行かざるをえなかっただけで」
「でも、他のマッチングアプリも、解約していないでしょ」
「そ、それはその……。誤解、としか」

 もごもごと口ごもったあと、じつは、おれ、と紘平は切りだした。
「自分のことが、きらいなんだよ」
「え?」
「大きらいなの。自分に自信とかまったくないし、好きなところもひとつもない。前の奥さんともうまくいかなかったし、まことも懐いてくれないし、だから、どう努力したらいいのか、さっぱり分からなかった。それで仕事に熱中しようと思った。それなのに、仕事でもうまくいかないことばっかだし、きっとこんなんだから、真那にもそのうち別れを切りだされてしまう、すぐに愛想を尽かされるって覚悟してた。それでも、おれにはまことがいる。まことと生きていかなければいけない。だからというのも何だけど、それで、アプリを解約するふんぎりがつかなくて……。真那に甘えて、任せっきりにしてるくせに。ずるいよ、ほんと」

 一気に吐きだした紘平は、そこでようやく大きな深呼吸をした。紘平がそんなことを思っていたなんて。目の前が揺れて、何から考えればいいのか分からない。

「でも、信じてほしい。真那とまことにどうしても会いたくなって、今日ここに来た。それだけはたしかで。真那が実家に帰るって訊いたとき、おれ、何かしでかしたかなって心配になった。それでも、あんまり聞くとイヤがられるかもと思ったし、お父さんの事情もあるだろうから我慢して待ってた。でも、全然帰ってこないし、連絡もそっけないし」
 そっけなかったのは、紘平のほうだろう。

「紘平が私と結婚したのは、私がまことの母親になるって、決めたからだと思ってた」
 真那が、ぽつりと言葉を投げる。

「私のことは、都合のいい女くらいにしか思ってないんだろうなって。でも、それでもいいと思って結婚した。なのに、まことは、ほんとにいい子なのに、全然いい母親になんかなれなくて。壁ばかり感じて。私っていつもそうで、何もかも中途半端で、そんな自分にも苛立ってきて、もういろいろ失格だって。そうやって、紘平にも捨てられて、そうやって、さびしく……」

 途中から、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。ただ、胸にこみ上げてきたものが、外に出たがっている。ぐっと押しとどめようとしても、もっと強い力でのどの奥からこみ上がってくる。

「おれは、ただ、いつもまっすぐで真面目な真那に惹かれただけだよ。こんなひとと誠実に暮らしたい。そう思って、結婚を決めた。それなのに、ごめん。こんなおれが言うのもなんだけど、いい妻とか、いい母親とか、そういうのを求めたわけじゃない。ただ、近くで見守ってほしい。そう思った。それだけは分かってほしい」
 
 紘平が一歩ずつ、真那に近づいてくる。
 ボストンバッグを足もとに落とすと、真那の左手にそっとふれる。汗ばんだその手を、真那も握りかえした。鼻を吸ったら、びいっと大きな音がして、つい噴きだしてしまう。紘平も、ふっと笑って下唇をかんだ。

 紘平の手はこんなにも大きく、柔らかだったのか。真那は何度も握りかえながら、紘平の手の感触をたしかめていた。
 
          
           〇


 紘平はその日、家族にあいさつをしたあと、一泊だけして帰っていった。
「紘平さん、いいひとだねえ」
 紘平は少し緊張していたのか、普段以上に口数が少なかったが、母にはそれが几帳面に見えたようで、紘平をいたく気に入ったようだった。

 父は、どう思っていたのだろう。見る影もないほど、父はすっかり大人しくなっていた。紘平が真那の夫だと理解していたのか分からない。その日も下を向き咀嚼に注意しながら食事をおえると、部屋に入って寝てしまった。それも仕方ないだろう。最近では真那のことも、娘だと認識しているのかどうかさえ怪しくなってきている。寝て、起きて、食べて、本を読んで、また寝る。すっかり別人のような静けさだった。

 サワオと紘平はすぐにうちとけたようで、紘平がお土産に持ってきた日本酒を、楽しそうに酌み交わしていた。

 まことはというと、久しぶりの父に興奮し、
「もう、おかお、わすれてたよー」
 などと言って、みなを笑わせた。
「ごめん、ごめん」
 まことを抱きしめる紘平の、左の口端がくいっと上がる。やっぱり、紘平とまことはよく似ている。微笑ましくて、ほんの少しだけさびしい。

 その日の夜は、遅くまで紘平と話をした。仕事のこと、家族のこと、環境のこと。これからのことをいっしょに考えよう。ゆっくりでいいから。来月また来るからと約束をして、紘平はこの町をあとにした。



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