小説『モモタマナと泣き男』 第1話
Mana eva manuṣyāṇāṃ kāraṇaṃ bandha mokṣayoḥ |
人は心。
束縛も、解放も、あなたの心のうちにある。
(サンスクリットのことわざ)
第1章 紅葉の冬
1.
小さな背中をさすりながら、真那は後悔をしていた。
五歳になりたての子どもがはじめて乗るフェリーは、夜行の長距離ではいけなかったのだ。
「きぼちわるい」
ひと晩じゅう吐き気とたたかっているまことの背中に手を当てながら、少しでも寝てくれたらよかったのに、と、真那はぼうっとした頭で思った。夜明けは近いはずなのに、小さな窓からはまだ灰色の空しか見えない。
この手のひらから、本心が伝わったりするのだろうか。それはないと否定しながらも、真那はなるべく手のひらに「心配」の念をあつめる。
まことは比較的、育てやすいほうだった。
何でも食べるし、わがままも言わない。体調を崩すこともめったになかった。保育士さんたちからは「いつもにこにこ、おだやかですよ」と褒めてもらうことが多くて、友だちとのトラブルは一度も聞いたことがなかった。
そんなまことを見ていると、よく、むかし飼っていた犬のタローを思い出す。従順で、まったく吠えない犬だった。いつもどことなく淋しげな目で、短いしっぽを振っていた。まこととタローとを並べて思い浮かべるたびに、母親失格だと愕然とする。でも心のすみでは、そんなものかもしれないなとも思ってしまう。
まことは夫の連れ子である。突然、子になったまことの気持ちを、真那は理解できているだろうか。結局タロー並みにしか、分かってあげられていないのではないか。諦めにも似たむなしさが、波のように寄せてはかえした。
「当フェリーは、まもなく港に到着いたします」
音割れしたアナウンスが船内にひびきはじめた頃、まことがようやくうとうとしはじめた。
「……まこと、もうすぐ着くって」
無理に起こす気はなかった。やっと眠れたのだ。降りる直前まで寝ていればいい。そう思っていたのに、つい耳元で小さくささやいてしまう。敏感なまことは、真那の声にぴくりと肩を動かすと、ゆっくりとまぶたを開いた。
「もう、つく? おりられるの?」
「うん、おりられるよ。じいじとばあばに会えるよ」
じいじ、ばあばだなんて、おこがましいだろうか。まことは真那のためらいなど気にすることなく、まっすぐな目でこくんとうなずくと、左の口端をくいっと上げた。その仕草が夫の紘平にそっくりで、真那はふいに目をそらした。
「今度移動するときは、飛行機にしよっか」
枕代わりにしていたバスタオルの角を合わせ、丁寧にたたむと、スーツケースにそっとなおす。
「ひこうきなら、のってるじかん、みじかい? そらもみえる?」
まことはまだ、飛行機に乗ったことがない。
うんうん、見えるよ。そう答えながらも、この子は飛行機でも酔うのだろうかと、ふと思った。
足元には、口のきつく結ばれた、白いビニール袋がいくつも転がっていた。吐瀉物の入ったそれらを、部屋のすみにあるゴミ箱へ運ぶ。体積のわりにずしりと重いそれらは、どさっと大きな音を立て、ゴミ箱の底へと沈んでいった。
「おりる準備できた?」
真那の問いに、緑のリュックを背負ったまことが、小さな手で目をこすりながらうなずく。真っ白な肌。目の下には、ぽこんと青紫色のクマができていて、透きとおったアメジストみたいだと思った。
〇
フェリー前方の壁がひらくと、陸へとつながる通路になる。係員の合図のあと、下階でエンジンをかけていた車両が、順にフェリーから飛びだしていく。階段に並んだ人々は、せわしなく左右に首をふり、出ていく車両を見送っている。
ひと晩中、フェリーのなかにいたのだ。一刻も早く、地上に足をつきたいと願うのは当然かもしれない。階段の最前列のロープがひらき、人々がいっせいに歩きだす。真那も流れに乗りおくれないよう、まことの手を引っぱった。寝起きのまことは歩くのが遅い。斜めうしろのおもりを引きずるようにして腕に力を入れるのは、歩くのが好きではなかったタローの散歩とよく似ていた。
桟橋の欄干はところどころ塗料がはげて、錆びついている。以前はあざやかな朱色だった気がするが、いったい、いつの記憶だろう。実家には、もう長いこと帰っていなかった。
真那の意見や行動に反対ばかりして、いつも声を荒らげていた父とは、高校生の頃からほとんど会話を交わさなくなった。母の仲介もあり、なんとか大学には進学させてもらえたが、二度とこの町には戻らないと、家を出る時の真那は強くそう思っていた。
それからは、がむしゃらだった。大学ではなるべくいい成績をとり、大きな会社に就職し、結婚して、子どもを育てて、それから——。それから、なんだったのだろう。
「真那、ちょっと帰ってきてくれない? お父さんがまた警察にお世話になっちゃって」
母からこんな連絡がきたのは、仕事も家庭もうまくいかず、ひとり窒息しかかっていた頃だった。
頑固なまま歳を取ってしまった父に、母は手を焼いているようだった。勝手にスーパーに行き、清算を忘れて商品をカバンに入れて帰ってきてしまうのだという。
「子どもじゃないから困るのよ。腕をつかんでも、力が強いし。ほら、お父さん筋トレ好きだったでしょ。一度ついた筋肉って、なかなか落ちないみたいよ。あれは裏目だったわ」
明るくふるまおうとする母の声に以前のようなハリはなく、時おりかすれて聞きとりにくい。
「わかった。近いうちに帰るね」
そう答えて電話を切る。
まことと紘平のことも、両親にはまだきちんと話していなかった。母を助けに行くようで、助けてもらいに行くようだなと思ったものの、情けない自分には気づかないふりをして、真那はクローゼットからいちばん大きなスーツケースを取りだしたのだった。
2.
「ばあばのいえ、どこ?」
桟橋を渡りきったところで、まことの甲高い声がする。きーんと、耳にひびく声。口数の少ない子でよかったと、真那はつい思ってしまう。
「ここから、ぐるっと車で回ったところだよ。三十分くらいかな」
まことの眉間に、小さなしわが寄る。きっと、車がイヤなのだろう。
道端には、サザエやアワビの海鮮をうたったのぼりが、ばたばたと風になびいて揺れている。もともとは白かったであろう建物の壁は、オレンジ色の朝日を浴びているのに、うっすらと黒ずんで見えた。
港からすぐのレンタカー店に到着する。
銀色の引き戸を開けて入ったが、店内にはだれもいなかった。「すいませーん」と、無人の空間に声をかけると、奥からサンダルでコンクリートをこする音がして、七十代ほどの男性がのっそりと黒い顔を出した。途中で切り上げてきたのか、たばこの臭いが鼻をつく。
「予約をお願いしていました、徳永です」
「ああ、はいはい。これ書いて、ちょっと待っててね」
男性は申込書を真那に差しだすと、店の裏から出ていった。車の手配に行ったのだろう。まことは、乱雑にささった雑誌ラックの前で、しずかにそれらを眺めていた。この町の観光誌のようだったが、どの表紙からも元のあざやかな色は抜けきっていて、タイムリーな情報がそこにあるとは思えなかった。
戻ってきた男性に申込書をさしだすと、簡単な説明を受けたあと、いっしょにドアから外へ出た。と、真那の目の前には、赤い普通車が停まっていた。
え? なんで? 軽自動車を予約していたはずなのに。
首をひねる真那に、男性は「いやさ、子連れなら普通車のほうが快適だろうと思ってよ」と、悪びれることなくこたえる。ジュニアシートを申し込んでいたせいで、子どもがいっしょだと分かったのだろう。
必要ないのにと思いながらも、真那は黙ってぐるりと敷地内を見まわした。軽自動車は出払っているのか、一台も見当たらなかった。道のせまい海沿いの町では、小回りが利き、値段の安い軽のほうが人気なのかもしれない。
男性は真那に鍵をわたすと、すぐさま奥へと帰っていった。再度、申込書の控えを見ると、請求額は普通車のものになっていた。真那は大きなため息をはく。軽がないなら、そう言ってくれたらいいのに。
しかたなく赤い車に乗りこむと、後部座席に乗ったまことに「用意できた?」と声をかける。シートからだろうか、さっきと同じたばこの臭いが真那の鼻先をかすめていった。
3.
走りはじめて五分もたたずに、まことは舟をこぎはじめた。
「寝ちゃったかあ」
午前八時すぎ。まだ朝食をとっていなかった。途中でコンビニに寄ろうと思っていたのに、いつまでたってもコンビニらしき店は現れなかった。まあ、いいか。真那は小さくあくびをすると、港の自販機で買った缶コーヒーを開け、ひとくち含む。
海につき出た半島の町。
映画でも見てるみたいだなと、真那は運転しながらふと思う。真那が家を出たあと、両親は引っ越しをしたようだった。ナビに入れた住所は、以前住んでいたところより、海に近い場所だった。
左手に見える碧い海も、迫りくる巨大な青空も、どこか創りモノめいて見えてくる。岩に生えた木も、ぽこんと海に浮かんだ島も。どれもあまりにもきれいで、目の前の景色をうまく信じることができない。
「大学なんか行かんでもいい。はやく結婚してこの町で暮らすのが、女の幸せっちゅうもんや」
酔った父の口ぐせだった。久しぶりの赤信号に出くわし、ゆっくりとブレーキを踏む。あれも夢だったのだろうか。車が止まったせいで、まことの頭がぴくんと動いたが、起きる気配はなかった。
「目的地に、到着しました」
しばらく走ったところで、女性の平坦な声が聞こえた。いったん路肩に車をとめて、あたりを見わたす。左手にはエメラルドグリーンの雄大な海、右手には小高い丘があった。草の枯れた、さむざむしい黄緑色をしている。
どの方角にも建物らしきものは見当たらなかった。どこかで道をまちがえたのだろうか。やや不安になっている真那に、ナビの女性は「案内を終了します」と一方的に告げると、はやばやと存在を消してしまった。
まいったなあ。時計に目を落とすと、八時半をまわっていた。
「おうち、ついた?」
エンジンを切ったせいで目を覚ましたまことが、よだれをぬぐいながら訊いてくる。
「うーん、ナビはここだって言うんだけど、何もないよね」
まことが大きなふたつの目をくりくり動かし、窓の外を見る。くっきりとしたキレイな二重だったから、赤ちゃんの頃はよく女の子にまちがわれていたらしい。
「うみだねえ、きれいだね」
これまで住んでいた街に海はなかったから、まことが目を輝かせるのも当然だろう。だが、ここでずっと海を見ているわけにもいかない。突然帰って母を驚かせようと思っていたのだが、やはり連絡をとるしかないのだろうか。
そうあきらめかけた瞬間、ふと、海岸の先に人影が見えた。
〇 〇 〇
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