冬子ちゃん
3月1日
「まどの上にある小さいやね」
という言い方を、彼女はした。「ひさし」という単語が、小学5年生の知識ではまだ思い浮かばないみたいだった。
「そこに積もった雪にね、足跡がついてるの。裸足の。大きさは、私と同じくらいで」
日向(ひなた)ちゃんがそういうと、おばけだーと、友達の一人が声を上げた。
「それさ、ちょうどその上に、日向ちゃんの部屋の窓があるんじゃん?」
「うん」
「水滴が落ちた跡とかが、そう見えてるだけじゃない?」
別の友達が、せっかくのオカルト話に水をさす。ただ、この子は気遣いができる子だ。多分、日向ちゃんが怖がらないですむように言ってあげてるのだろう。
「でも、すっごく人の足っぽいんだよー?」
朗らかな性格の日向ちゃんは、怖さより、非日常が身近にある楽しさに心が向いているようだ。自分の部屋をお化けが訪ねてきてる……そういうことにしたいらしい。
交差点前の長い信号が変わった。彼女たちは横断歩道を渡って、学校へと向かっていく。
僕は席を立ち、支払いを済ませて、馴染みのカフェを後にする。寒い。都心に積もった雪は、まだしばらく消えそうにない。
立ち去る前に、植え込みに手を入れる。隠していたbluetoothマイクは、今日も無事に回収できた。
3月2日
「やっぱりあれ、足跡に見えるー」
「写真見せてよー」
「スマホ持ってないもーん」
楽しそうな声が近づいてきた。日向ちゃん。冬でも日に焼けた健康的な顔色。大きくて丸い、愛らしい瞳。明るい色の髪の毛が、頭の後ろで束ねられて歩くたびにひょこひょこ揺れる。その下でむき出しになったうなじは、冷気に当てられうっすらと肌を粟立たせている。
僕はカフェのガラス越しに日向ちゃんを盗み見る。表向きはイヤホンで音楽を聴いてるふりをしながら。
朝の登校は、学校の外であったことを伝え合う、大事な情報交換の時間だ。さあ日向ちゃん、昨日はどんなことがあったの? もっとお兄さんに聞かせてくれないかな……?
3月3日
「冬子ちゃん、今日もいた?」
冬子ちゃん……?
聞き覚えのない名前に、僕は首を傾げる。日向ちゃんの交友関係は全部把握しているはずだけれど……?
冬子ちゃん……一体誰だ……?
「いたー! でももう、雪溶け始めてるから、あんまり足跡っぽくないかも」
ああ、例のひさしの足跡か。名前つけたんだ。かわいいな……。
「なんかさー、冬子ちゃんって、完全に私たちの友達みたいになってるよねー(笑)」
「だってもう毎年さー、雪が降るたびに冬子ちゃんの話してるもん」
「今年も冬子ちゃん来るかなーって、冬休み前から言ってたもんねー」
去年と同じように、冬子ちゃんの話で弾む会話。
今日も日向ちゃんは髪を束ねて、うなじをむき出しにしていた。この寒さの中、平気でそんなファッションを続けられるのは、きっと体温が高いからだろう。ああ、日向ちゃん。君の頸動脈に流れる血は、どんなにか温かいことだろう……。
「あ、今日ね、5時半に来て!」
日向ちゃんが言った。これは誕生日兼ひな祭りパーティーのことだ。日向という名前は、ひな祭りの日に生まれたことと、その時期はもう暦の上では春であることから、「日向ですくすく育ってほしい」という願いを込めてつけられた。
そうだね……日向ちゃん、また一つ年を取るんだね……。
迎えに行く日が、近づいている。
3月4日
「もうちょっといたかったなー」
「雪、いきなり降ってきたもんね」
やや心残りのあるパーティーだった。途中で雪がまた降ってきて、積もる前に解散したほうがいい、となったのだ。本当ならあと1時間くらい楽しむ予定だったらしい。
「あ、でもね!」
日向ちゃんは興奮した様子で言った。
「あのあと、冬子ちゃんが来てたの!」
えー! と女の子たちの間で声が上がる。
「あのね、パーティー1階でやったじゃん? 私、自分の部屋の窓、空気の入れ替えのために開けっ放しにしちゃってたの。そしたらね、夜戻ったら雪が入ってきてて……」
迫真した日向ちゃんの語り口に、友達は引き込まれてる。
「それでね、その雪にね、足跡があったの! あの、窓の上の屋根についてたのと同じやつ」
わー! と、女の子たちは声を上げる。
「それ見たい! 今日も行っていい?」
友達の一人が言った。
「もう残ってないよー。ほっといたら床、びしょびしょじゃん(笑)……あ!」
となにかを思い出したように、日向ちゃんは声を上げた。
「そういえば昨日、誰か早く来て、一回戻ったりした?」
意外な質問に解せない顔をして、友達たちは首を振る。
「昨日ね、その窓開けた時にね、下に誰かいるみたいな感じがしたの。まだ早いのになーって思ったけど、一応『いらっしゃーい』って言ってみたの。でも、結局誰もいなくてさー」
それは僕も見てたよ。一人で気恥ずかしそうにしていたのが、かわいかったな。
「ちょうどその時、お母さんが下から準備手伝いなさいって言ってきたから、私一階に行って……それで窓、そのままにしちゃったの」
3月8日
「お母さんがねー、また私の名前間違えたの! 私に向かって、冬子って。ひどくない?」
「落ち着きなよ冬子ちゃん」
「もー! 冬子じゃないー!(笑)」
「え……あれ、違う……私、今……?」
あと少しで春休みだ。こうやって日向ちゃんの登校を見守れる日も、もうあまり残ってない。
「あとなんかね、お父さん浮気してるかもって、お母さんがいうの。長い髪の毛が家の中に落ちてたって」
「それって、私たちのとかじゃなくて?」
「んーとね、このぐらい」
と、冬子ちゃんは、腕を広げてみせる。早生まれで背が低い日向ちゃんだと、足の付け根に届くほどの長さだ。同じ年頃の平均的な女の子なら、腰ぐらいまでだろうか。
「それは長いねー」
「そんなに伸ばしてる子いないよー」
「お母さんの友達は?」
「髪の長い人はいるけど、その人のは染めてウェーブかけてて、でも家の中で見つかる髪は黒くて真っ直ぐだから、絶対違うって」
不穏だな、と僕は思った。
たしかに冬子ちゃんのお父さんは、いかにもモテそうな外見をしている。
こういったところから、家庭というものは崩壊していくのかもしれない。
もしそうなったら、日向ちゃんはどんなに傷つくだろう……?
そうなる前に……。
僕は、"お迎えの日"を早める決意をした。
3月9日
決行した。僕はついに決行した。
夕暮れ時、君が一人になるほんの一瞬を逃さずに、車に連れ込んで……。
成功だ。誰も見ていなかった。無事ここまで連れてこられた。
ああ、夢のようだ。
冬子ちゃん……!
ごめんね冬子ちゃん、痛かったね……
ロープをほどく。
縛られていた腕と足首に、真っ赤な跡が無慈悲に走っている。しかし、それすらも美しい。
ああ!
冬子ちゃん冬子ちゃん冬子ちゃん
冬子ちゃん冬子ちゃん日向ちゃん
冬子ちゃん冬子ちゃん冬子ちゃん……!
………………日向ちゃん?
……誰だ、それは?
わからない。どうして知りもしない女の子の名前が浮かんだのだろう?
今僕の目の前にいるのは、まぎれもなくあの冬子ちゃんだ。長い間見つめ、恋い焦がれてきた、あの冬子ちゃんだ……。
雪のように真っ白な肌。スラリと伸びた細い手足。幼さと妖しさが同居する切れ長の瞳。ずっと見守る僕にさえ、一度もうなじを見せずに来た腰まで伸びる真っ直ぐな黒髪……。
それにしても、なんていい子なんだろう。
突然さらわれて、びっくりしたに違いないのに、暴れもせず、泣きもしないで、そんなに優しく微笑んでくれて……。
ああ、冬子ちゃん……君も僕を、ずっと待っていてくれたんだね……!
そうだ、歓迎するよ。
君のために用意した隠れ家なんだ。
この場所で、君は永遠になるんだ……この僕の手によって……だから……。
僕は彼女に優しく告げた。
「いらっしゃい」
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