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星座をつなぐ観劇日記(エッセイ)

手を伸ばせばいつでも届く本や映画と違い、ライブパフォーマンスはその時にしか見ることができない。
そんな贅沢なエンタメの享受をさらに特別なものにするのは、自分のカレンダーに浮かび上がる観劇作品からできた星座をなぞることだと思う。

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あなたは読んだ漫画や聞いた音楽をテーマで結びつけて関連性を見出したことがあるだろうか。
世の中のエンタメは時としてキュレーションされることがあり、夏になれば怪談が特集されて、著名なクリエイターが他界されると追悼の特番が出る。
これを自発的にやるとなかなか面白いものだ。例えば…

〇〇しばり
例えば、ある作家だけに絞ってバックナンバーをなぞっていく。
もしくは、ある年代。あるテーマ。ある形式。
自分の興味や好みを深堀りし、マイナーな差異を発見することができる。

自分で意図的に引き寄せるしばりも楽しいけれど、偶発的なものもいい。
例えば、実在の外国人新聞記者をモデルにしたWOWOWのドラマ「Tokyo Vice」と、パートナーがお勧めしてきた漫画「サンクチュアリ」と、原作が好きで見に行った映画「カラオケ行こ!」ーー同じ月に観た作品の実に3つがヤクザ絡みだった。
無意識の仕業か、たまたまこうした偶然が起きることもある。

元ネタしりとり
作品Aを摂取したあと、作品Aが影響を受けたり種本にしたという作品Bに飛び移る。
より壮大になると、作家単位で系譜を辿ったり、テーマ単位で連鎖させたり、どこへでも旅ができる。

小さい頃、好きだったファンタジー作家がファンタジー執筆のきっかけとしたという古典を親が買ってくれて、その手があったかと驚いたものである。

何の気なしに選んだものたちが実はつながっていたりすると、なおのこと嬉しかったりするものだ。

このように、意図的にせよそうでないにせよ、自分という人間が接した順番や期間によって、直接繋がりのなかった作品たちが繋がると、気持ちが良い。
性質の異なる玉たちがうごうごと震えてピチョンと玉になるよう感覚。インプットにかかった素敵な演出だ。

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話は冒頭に戻る。作品の関係に気がつく中でとくに好きなのが、生モノでそれを見いだせたときである。

例えば今週。
火曜日の夜に観たミュージカル『カムフロムアウェイ』。これは日本での上演を心待ちにしていた素晴らしい作品で、実話を元にしたドキュメンタリータッチの輸入作品である。
水曜日の昼に観たナショナルシアターライブ(英国演劇の映像を映画館で観られるサービス)の『ディアイングランド』。これはイギリスのサッカーの監督を主人公に据えたスポーツものの芝居だが、これもまた忠実な取材に基づいたドキュメンタリーものである。
ひとつでなくふたつのドキュメンタリー系の作品を続けざまに観ることで、取材はどのように行ったのか?どの程度生の言葉を作品に生かしているのか?観客の受容はやはり環境により大きく左右されるのか?宣伝はどのように実話であることをアピールしているか?共通項と差異が浮かび上がり、私だけの視点が生まれる(ように思う)。

そして、水曜日の夜にはミュージカル『スウィーニー・トッド』を観劇した。これはうってかわってソンドハイムの大スペクタクルのホラーミュージカルだ。その鮮やかな違いを感じつつ、ふと気づくのはどちらもイギリスを舞台にした話だということだ。
少々強引だが、かけ離れた時代の間に流れたイギリスの歴史を思い、また、オリジナルが英語の作品をそのまま英語で鑑賞することと、翻訳された日本語で鑑賞することの違いを思う。

もちろん多くの観劇経験がこうした気づきを難なく与えるものなのかもしれないが、やはり今日この体がほんの数時間前に浴びた物語と比較する事は、人生経験にもなったかのような生々しい感覚があり、ただ作品の要素を比べるのとは違う旅行先の都市と都市とを思い比べるようなみずみずしい発見を与えてくれる。

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今年の年明けの事。
全く無計画にだが、それにしては完璧に古典芸能を味わう週があった。
月曜日には人形浄瑠璃文楽で『双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき』という作品を観て、濡髪長五郎という役をを使う人形遣いの技に感じ入った。
水曜日に見た舞台『中村仲蔵』は、主演の藤原竜也が江戸時代の歌舞伎俳優を演じるという現代演劇。即座に話に引き込まれた序盤、主人公の仲蔵が勝ち取った役は、濡髪長五郎に殺される村人だった。文楽でその作品をしっかりと見てきた。私はその役がどのぐらい端役だったかをすぐに察することができた。
その後、中村中蔵は自分の名を構成に知らしめることになる「忠臣蔵」の5段目を演じる。長い苦労の稽古がよくわかる素晴らしい長台詞で観客を魅了した藤原竜也は、拍手喝采の家に作品を最後まで走りきった。

さて来たる金曜日の事、私が赴いた落語会「よみらくご」は、落語だけでなく講談や小唄まで取り揃えた華やかなホール落語だった。次々と高座に上がる演者に魅了されていると、講談の田辺いちかさんが始めたのは赤穂浪士の討ち入りの場面ではないか!
「中村仲蔵」で忠臣蔵のあらすじを池田成志さんにたっぷりと説明されている私は、またこの物語に触れ、数百年経った今も日本人がこの話が好きなんだなぁと思うこととなる。

この1週間はまさに神の采配としか言いようがなく、それぞれを単発で観劇していたならば、日本の古典芸能が根の深いところでつながっていることや、1つの歴史の出来事から日本人がいかに心動かすエンターテイメントを作ってきたかということをここまで感じられなかったかもしれない。

自分の体の中にまだあの物語が残っているーーそう感じるうちに新たな感動を呼び込むことができた時、これは他の誰にも真似ができない自分だけの世界の吸収の仕方なんだなぁと思う。

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このように思うようになったのは数年前がきっかけだ。
その時のことをnoteの下書きに起こしていたが、結局記事にすることができなかった。今こうしてその後の経験をもとに改めて立ち返る機会が出来た。

まず初めに見たのは、中野サンプラザのライブ公演で、ウルフルズとCreepy Nutsの対バンだった。
ワンマンに行くほどウルフルズが好きな私だが、またライブに行きたく、Creepy Nutsもぜひ生で見てみたいと思ったので、パートナーとともに出かけたのだ。もちろん二組とも素晴らしかったが、初めて聞くR-指定のラップはその澱みのなさ、言葉のパンチ力、観客のノリーー全てが相まって、新鮮でヒップホップと言うものに対して解像度、ぐんと上がった。

そして私はまた、ヒプノシスマイクの楽曲を聴くようになる。
コロナ中にはまったオタクコンテンツでヒップホップ人口にわかに増やした功労者でもあるが、Creepy Nutsは大阪ディビジョンの曲を提供している。(実はウルフルズも。)一流のヒップホップアーティストを見た後に感じる、ヒプノシスマイクの計算された分かりやすいエンタメ性たるや!!これぞ、出会い直しという奴だ。

次の週だったか。私は古川雄大主演の『シラノドベルジュラック』を観に行った。
音楽性としてはかなり重めなヒップホップ。ラップを取り入れた気鋭の演出が話題になった海外作品のレプリカ公演であった。(イケメンすぎるシラノの説得力のなさは棚に上げておいて、)モダンでドラマチックで艶っぽい作品ーーそこまでの数日で、こんなにラップやヒップホップを聞いていなければきっと気がつくことができなかったであろうというほど、翻訳ながらも潤ったフロウを感じることができた。そして終盤、シラノは死んでしまった。

ほどなくして出かけたのは日生劇場のミュージカル『ラマンチャの男』である。今度こそ出演が最後という松本白鵬と松たか子との親子共演は非常に見ものだった。そしてラマンチャの男は、最後に死んでしまった。

最後に主人公の男が死んでしまう名作演劇は何もその2つだけではないか、語り部という特技を持つ2人の共通項は、考察し比較するに値する対称性があったように思う。

そんなことを考えていた矢先、義理の祖父が亡くなった。身近な人を亡くす経験はそう多くしていない私としては、舞台の上だとしても、最近それを経験したことーーいわば喪失への親しみのようなものーーに、少しだけ支えられた。

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紛れもなく偶然ではあるものの、すべてが数珠繋ぎに少しずつ意味を深め合い、私だけの観劇体験が形作られて行った。それはまるで、カレンダーの中の観劇記録を結んで自分だけの星座を描いていくようだ。ああ、こうして私の人生は少しずつ深まっていくのだと、ぼんやり悟った。
積み重なる一万円以上の出費を集めてみれば、立派な装飾品で身を飾ることも出来るのだろうとも思いながら、目が肥えること、耳が肥えること、そして時として遅れてやってくるような作品同士のつながりが、私を豊かにしてくれるのだと信じている。

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