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字幕屋に「、」はない(字幕はウラがおもしろい)【82】

私は断然「字幕派」です!

 先日、久しぶりに映画館で字幕付きの映画を観ました。驚いたことに、スクリーンの下部に横書きの字幕・・・ 確かに数字は横書きの算用数字が読みやすいが、最後まで違和感・・・ フォントも、手書きの文字じゃなくなって久しいですが・・・ これも「慣れ」の問題なのでしょうね。

厳格なルールに縛られた中での表現

 字幕のルールとして、1秒間に4文字という縛りがあるそうです。それ以上になると、読み切らないうちに字幕が消えてしまうから。長い台詞や早口でまくし立てるような場面の字幕翻訳は、苦労が絶えないだろうことは容易に想像がつきますね。特に、伏線になっている台詞がそれだと、言葉選びが大変です。

通訳にはマニュアルがない

 今の若い子は、マニュアルどおりにしか行動できないと批判しがちですが、いつの間にか自分もそうなっていた・・・と、反省したところです。
 要約筆記の実習で「・・・どこまで要約して良いのか、その基準が知りたい」と、質問したことがあります。講師の答えは「明確な基準はない。話の内容や、参加者の理解度、その他諸々で変わる。現場で判断する必要がある」と。字幕に関しても同じことが書かれていました。

 では、なぜ字幕にマニュアルがないのでしょう。言葉の表現は数字の計算と違うからです。そして、同じ物語はふたつとないからです。仮に全く同じ脚本でもう1本映画が撮られたとしても、セリフをゆっくり言うか早口で言うかだけで、文字制限のある字幕は表現が変わってきます。

 言葉が「生きている」証拠ですね。そして、

 せめて質問するときは、「どうすればいいのですか」ではなく、「私はこう考えますが、どうでしょう」くらいの聞き方をしてほしいものです。

 この1文にホッとしました・・・(笑)まさに「私はこう考えますが、・・・」と、質問していた。私も捨てたもんじゃないなと(笑)

 マニュアルを求めるのは、「教科書の試験範囲を丸暗記すれば期末テストはオッケー!」という感覚でしょうか。頑張りさえすればそれなりの安心感を得られる世界。でもいくら翻訳で頑張っても「安心」など絶対に得られません。何十年やろうと何百作品やろうと、永遠に不安と後悔と無力感だらけです。

 同じようなことを言われているな~「今できへんのは当たり前。だから、落ち込む必要はなし。ほんとうに落ち込むのは、現場に出てからや!」と。
 字幕も要約筆記も、おそらく言語を扱う人たちはみな、同じ思いを持って臨んでいるのだろうと思いました。だから、

もし「この字幕は完璧よ、えっへん」とホザく翻訳者がいたら張り倒しましょう。

にも、激しく同意!(笑)

英語教育、ゆとり教育に思うこと

 言葉は生き物。だから時代に合わせて変化していく・・・それには何の異論もありません。ただ、やっぱり教養として、美しい日本語、正しい日本語を扱える人でありたいし、あってほしいと思います。
 「日本語に深く携わる業界人でさえ、ひどい日本語文を公的に送ってくる」とか、公的な電話で適切な敬語が使えないとか。それがTOEIC850点て・・・
 国語力の低下は、ゆとり教育のせいとも言われているようです。そのせいで、字幕が読めない人が出てくると・・・ほんとかな?

あまりにも少数の意見に従いすぎ

 ゆとり世代はみんな、国語力が低いわけではないですよね? 一部の「できない人」に合わせて、豊かな表現が失われることの方が問題じゃないですか?
 字幕を読むのが苦手なら、吹き替え版を観るとか、DVDなどを利用して一時停止しながら何度も観るとか・・・やり方はいくらでもあるはず。

 わずか数件のクレームに対して過剰に対策する風潮、言葉の問題だけではないですね。
 声の大きな少数者に配慮するあまり、数10万、数100万の人たちの自由を奪う世の中に対する苦言にも、激しく共感しました。