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ミジンコはわらった【98】

一人の画家が、和歌山県沖で遺体となって発見された。死体遺棄の疑いで逮捕された男女は・・・。ミジンコ画家で、書字障害の征司、オネエバーで働くトランスジェンダー・ベリー、カルト教団で育ち、叶わぬ恋に焦がれる女性キリコ――三匹のミジンコが紡ぎ出す名付けようもない関係性。強く、濃いそのつながりこそ、誰しもが求めるものではなかったか。抽象的な関係の支配にあえぎ、深い愛を求める、はみ出し者たちの生、そこには限りないやさしさが。姉妹編三部昨『臆病な僕らは幸福を病んで』『永遠をひろって』。

データベースより

平均を求められる教育の弊害

書字障害の征司は小学生の時、母親から文字を書くことを強いられる。
息子の将来を案じる親としては、当然のことだと思われるだろう。
だが、書字障害は脳機能の特性なので、いくら努力を重ねても読み書きができるようにはならない。
決して本人の努力不足ではないからだ。
努力しても報われない。
強いられる子どもにとっては、拷問以外のなにものでもないだろう。
わかりやすい例を挙げると、聾児に対する発音練習だ。
これは、盲目の子どもに習字をさせるのと同じだと私は思うのだが、
友達のろう者たちは、等しく発音練習を強いられてきたという。
発音練習を重んじるあまり国語を学ぶ時間が奪われ、
満足に文章を書けない人もいる。
なぜ、このようなことが起きるのか。
私は「義務教育」に原因があると考えている。
義務養育は、イギリスでは産業革命のころ、日本では明治以降から始まったようだ。
産業革命により、子どもは家庭教育から引き離され、学校へ集められた。
工場で働く工員を作るのが目的だったそうだ。
始業の合図で仕事を始め、皆が同じ能力を持ち、工場の一部として機能するように。
ここで大事なのは、皆が同じ能力をもつこと。

日本では寺子屋が廃止され、小学校ができた。
学びたいことを学びたいだけ、学ぶ教育がなくなった。
皆が前を向き、先生の言うことを聞いて、板書を写すようになった。
寺子屋では、めいめい好きな場所で好きな向きに机を置いて学んだという。
途中で立ち歩くのもよし、先生を捕まえて質問したり、友だち同士で教え合うのもよし。
秩序がないように見えて、「学ぶ」という大目標を共有しているので、学級崩壊のようなことにはならない。
日本の義務教育導入の目的は、水兵を育てることだったという話もある。
兵士を作るには、一定の能力を持つ人材を育てることが重要だから。
できない子どもは、劣等生のレッテルを貼られ、努力が足りないと反復練習を強いられる。
多くの子どもは、反復練習で能力が上がるが、逆効果になる子どもがいることは、最近まで教育現場でもあまり知られていなかった。
ようやく子どもの個性に合わせた教育をしようという動きが、少しずつみられるようになってきたので、期待している。
それぞれが得意な能力を磨き、尊敬され、自信をもって育っていけるようになればと願う。