わたしは、だれ?
魂とは何か?
それを考えた時、ふと、この作品を思い出した。
娘を亡くした父親(権力者または科学者)が、
アンドロイドとして蘇らせる話は数多い。
正確には、姿形は同じでも、まったく別の新しい命だ。
けれども父親にとっては、娘が生き返ってくれたという幻想に浸れる。
娘が死んだという悲しみを薄めることができる。
『メトロポリス』のティマは、記憶の復元が不完全だったために、
まっさらな純粋さを持って外界の人間と接していたが、
『ビッグオー』のドロシーは、人間であったときの記憶をしっかりと
引き継ぎ、その上で自分が機械人間であることも自覚している。
そのためか少しひねくれた娘になった。
「私は私。他の何者でもない」
人間のドロシーとは違うのだと、はっきり断言して迷いがない。
記憶のあるなしで生まれるこの差は何だろうか?
記憶は自我と結びついている。
「自我」とは、育っていく環境から大きな影響を受けて、
それが元々の素質に結びつく。
先祖から受け継いできた気性や性質、人間性と表されるエッセンスに、
環境からの影響によって形作られた自我が結びついて「性格」になる。
(…と私は考える)
『メトロポリス』の作品で最も大きく、印象深い問いかけが、
ティマの最期の言葉である「わたしは、だれ?」。
「わたし」とは何か?
「魂」とは何か?
「記憶」とは「命」なのか?
これから少しずつ、掘り下げて考えてみようと思う。
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