聖書

聖書の学びの今後の方針

とりあえず、前回の記事で自分がなぜ聖書の教えを学ぶのかということと、無信仰でいることのデメリットとを明らかにできたので、満足である(笑)

特に聖人君子を目指してはいけない理由については、実は中学生の頃に漠然と気付いていた。部活だとか、リーダーとか、人間関係とか、でね。

自分が頑張って良い手本になろうとすればするほど、私にに頼って手抜きをもくろむ人が集まってくる。「寄りかかってくる人がいるぞ。」「頑張る意味なくね?なんで俺がどうでもいい人を支えなければならないんだ?頑張れば頑張るほど、自分が辛くなるだけじゃないか。なぜあいつらを楽させるために俺が頑張らなければならないんだ?」と。

それが数十年の時を経て、今、ここに文章として、きちんと説明できる状態ではっきりと書けたことは、幸せである。

前回の記事の結論は、無信仰なままで勝手に作った聖人君子は、実現不能なので目指すことは誤りであり、仮に近づいたとしても、すぐに楽(らく)をもくろむ人が寄り集まって頼りまくってくるので、ついには自分自身も相手もだめにする結果となる、というものである。

もう、無信仰であることの恐ろしさしか感じない。両親が信仰心の厚い人でなかったことが残念でならない。もっと若いうちに聖書の教えに従って生きていたかった。これが本心である。

さて、今、心から悔い改めたので、神様もお許しになるでしょう(笑)
あとは未来に向かってGo!である。

で、聖書の学びの今後の方針

だいぶ長い前置きになった。昨日、ローマの信徒への手紙を読み終えた。旧約聖書と新約聖書のかなりおおざっぱな要約という印象。旧約聖書の内容も入ってきているので、4割程度はよく分からない。

無料の聖書アプリ(iOS用Android用)の目次を見ると、どうやら、新約聖書ではここから先、「~への手紙」と、最終章に「ヨハネの黙示録」があるのみ。ず~と手紙のお話になりそうである。

なので、なかなか面白いお話が書けるかどうか、ご紹介できるほどの学びを得られるか、得られたとしても上手く紹介できるか、分からない。そのため、聖書の学びの投稿は、しばらく低頻度になると思います。

むしろ、1記事に時間をかけすぎているため、週あたりの投稿数を減らす予定。読書の時間すらも使ってnoteを付けるのは本末転倒。

まぁ、なかなかニッチな分野のコラムになるので、そもそも期待されていないことは承知していますが、ここまで結構熱い想いの投稿が続いたので、そのペースはキープできないと思い、一応の断り書きをば。

皆さんも良い一日を。沢山の祝福がありますように。



(182回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊