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noteはとがりすぎていた自分を丸くする場所

以前、「noteはBlogよりも生産性が低いし、意味がない」という記事を書いた。そしてしばらくはてなブログを中心に文章を書いていた。

はてなブログは良質な執筆体験を味わえる。思考の整理手段、情報の分かりやすい伝達手段として、とても満足している。グーグルアクセス解析のキーワード解析により、自分のブログがどんな人に読まれているかがわかった。アクセス数も徐々に伸びている(それでも微々たるものだが)。

ふと、久々にnoteのダッシュボードを開いてみた。相変わらずアクセス数は少ない。あきらめを超えていたのでとくに何も思わない。このまま閉鎖するつもりでいたので。

だが、スキが2つ付いていた。どちらも同じ人からのものだった。ちょっとだけほっこりした。その人もまたクリエーターだった。心が少し温かくなった。そのままの流れでその人のページを見たり、noteのTOPから適当に記事を流し読みしていく中で、今の自分の飢えた部分に気が付いた。

noteの魅力再発見

noteは、ゆるいつながりの中で、それでもクリエーターたちが何かしらのクリエイト活動をしていることをゆるく発信したり楽しんだりする場所なのだと感じた。

なんというか、東南アジアに行ったかのような気分。

ぬるいと言えば、ぬるいことになる。だが、それでもマイペースに何かしらをしていることを伝えようとしている意思がある。この微妙な感じが好きか嫌いかで前の記事のような結論になるのだろう。

顔のないブログの読者

ブログで情報の質を高めるために表現を精査し、アクセス解析でニーズを捉え、時間をかけて価値ある情報を提供しようと一人奮闘してきたときに、ある種の孤独感を感じた。確かにPVは伸びているが、彼ら/彼女らは誰なんだろう?と。自分が手間暇かけて無償で情報を分かりやすく提供しようとした価値を受け取る人たちは、どんな人なのか。知る術はない。そこにはただ単にPVとしての数字が伸びているだけだった。

一方で、noteのスキに心が熱くなる理由は、相手もまた何かしらのクリエイトを行うクリエーターだという事実。一人じゃないという安心感。名も知らぬクリエーターからの激励。そういう理解が無意識のうちに感じられていたのだ。だから1つのスキが妙に心に響く。

クリエーターとは?創作活動とは?

現実社会で趣味でもクリエイト活動を行っている人は意外と少ない。大変だからね。受け取るだけの趣味が楽でいい。でも、だからこそ、何かを生み出すことをしている人だけにしか分からない産みの苦しみや喜び。これは分野を問わず、なぜかクリエーター同士ではツーカーで伝わってしまう面白さ。
だから私は、何となくにせよ、noteのダッシュボードを開くブックマークをクリックしてしまったのだろう。

もしかしたらスキが付いているかもしれない、と。

まぁ、しばらくの間スキが付かないと逆にすねてしまう自分がいるのも事実なわけですがw

自分のためだけの発信の場でもいいんだな


noteはほっこりする場所。それでいいんだ。


情報の価値とか、蓄積とか、そんなんじゃぁない。
今を楽しんでいる人たちの足跡が残る場所。今を楽しんだ・苦しんだ自分の足跡を残す場所。刹那のスキが触れ合う場所。時間とともにそれらがゆっくりと消えていく場所。

そんなやわらかい場所だったのだ。

とんがりすぎた自分の刃をわざと丸くする場所。まぁ、後から別の手段で鍛え直して再び鋭い刃にするのだが、それは材質が柔らかくなければできない。柔らかい身で、時には鋭く、時には丸く。

noteはとがりすぎていた自分を丸くする場所。

だから時々、思いつきで駄文を放ちますが、お許し下さい。


読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊