サンタクロースtrim

(聖) サンタと平和・友情・絆・幸せと、スイッチと。 (聖書の学び 9)

実はこれらには共通点があります。というか、あったことに気付いたので書いてみた(笑)

サンタクロースはいますか?

ある記事を見ていて。子供が「サンタクロースっているの?」と聞いてきたとき、の話。私だったらなんていうのかな?超現実派な自分は、サンタの現状をごく普通に返答するだろうなぁ、と冷めた答えを考えていた。

その記事では、新聞の投稿欄に子供からの質問であって、回答者は、「もちろん、Yes」であり、回答の最後にこう付け加えていた。

信じることによって存在するものが沢山あります、と。

平和や友情や絆って存在しますか?

ハッとなった。サンタを否定できる自分が、平和や友情や絆は肯定していた。サンタは目に見えるから否定しやすかったし、反論の材料も沢山用意できそうだ。だが、目に見えないものの存在については、その肯定も否定も材料が本当にあるのか?と。

幸せって、ありますか?

もうばれたかな(笑)

なんで私は平和や友情や絆、幸せの存在を肯定していたんだろうか?論拠をそろえるよりも、もっと簡単で分りやすい根拠があった。

私はそれを信じたかった

これだったんだな。願いといってもいいな。平和も、友情も、絆も、あって欲しいし、あれば幸せだと思うんだな。信じるから存在し、存在すると思えるから、それを大切にしたいと思えるようになる。信じなければ、存在しないので、それ以上そのことについて考えることはできない。

(例えば、考えてみた。信じない意見の例)
サンタ?いないよ、どっかのアルバイトおじさんのコスプレだよ。
平和?世界のどこかで今でも紛争してるけど?
友情?利害が一致している瞬間に過ぎない。
絆?自身の勘違い。都合いいように使われるだけだよ?

今、上記の信じない意見の例ように、信じないような意見を自分で勝手に想定してみた。負の自分でもある(笑)。確かに全てに根拠があるし、覆すのは難しい。けど、信じない意見の例に、何のパワーも感じない。むしろ腹が立つ(笑)信じないような意見には、なんか、カッコいいことを言っている感を漂わせているが、意見のベクトルが常に発言者自身に向いている(俺最高、俺カッコいい)ように見えて、気持ちが悪い。

ところが、サンタや平和や友情や絆について、信じることによって存在させてみようとすると、それを普遍的なものにするとすれば、どうやったらいいのか?なんて考えてみたりする。行動につながるかもしれない。

信じるの根拠は、突き詰めてみたら「信じたい」だった。願いといってもいい。

だから、ある意味、もろいっちゃぁもろいんだな。目に見える物に対する根拠が「クッキー」だとすると、信じたいって根拠は、紅茶やコーヒーの「香り」くらい弱いかも知れない。鼻が詰まっている人には無に等しい事になる。

サンタや平和や友情や絆のお話のように、信じて存在させたから幸せになれそうなのか、幸せになりたいからそれをを信じるのか。どっちでもいい気がする。自分ワールドの中にそれの存在が当たり前になりさえすれば、それにくっついてくる幸せもまた、自分ワールドの中に生まれる。それらが自分ワールドの中にある理由をいちいちくっつけなくてもいい気がする。他者を説得する必要がなければ、いちいち根拠をそろえる必要もない。

何を信じるかってのは、重要かもしれない

明日の生活に何の関連性もない「サンタや平和や友情や絆」について考えてみても、信じてみる派の人生と、信じない派の人生、どっちがいい?私は信じてみたほうが面白そうだし、夢があって幸せに生きられる気がしたよ。

だから、よく生きることを考えたとき「何を信じるか」ってのは、とても重要なのかもしれない、と思った。そもそも、「よく生きる」とはどういうことかをきちんと決める必要がある。そのための基準が必要。

だが、自分はぶれまくっている。基準がない。困った。

で、神の教えを信じてみることにした。

今までの人生で、「自分を信じる」ことも含めて、色々な人の考えなどを、対面、本、動画などで体験してきたわけだが、どうにも、ブレる自分が収まらない。ぶれっぶれである。もはや何も信じられない。けど、何かを信じたい。これな!

宗教を信じるのがいいのかな?と思って、宗教などを調べてみた時期がある。宗教といっても乱暴な物言いで、宗派によって全然違うこともあり、困惑。宗派Aと宗派Bとで全く逆のことを言っているなら、それは信ずるに値しない宗教になってしまい、今のブレブレな自分と変わらないことになる。

約1600年間も国・民族に関わらず支持され続けてきた教えの存在、そのコアのわかりやすさ

聖書にたどり着いたのはこれが理由であった。私や周りの先輩方ですら、数十年しか生きておらず、余命も数十年しかない。それに対して、1600年間も人々から支持され続けてきた教えは、私にとっては十分にぶれないもの、価値あるものだと思えたのだ。その内容も、微細はともかくとして、理解可能な文章としてきちんと受け継がれ続けていることが凄い。だから、宗派間の差が、他の宗教よりも小さいというのも理解できる。「隣人を愛せよ」が「隣人を愛するな」にはならないってのは、教えを心から信じるためには重要な要素だ。

他者の意見を無視するという意味ではないよ。納得できる意見であれば吸収したいし、意見は意見として尊重したい。が、他者の意見がいまいちよく分らない場合に、何となく「そうなんだろうな」と思って吸収することが、怖い。その意見の確からしさを確かめることなしに受け入れていいほどの情報源なのか、分らない。
要は、他人発信の情報については、信ずるに値する情報か否かの判断基準が「その人が言ったから」であるとするならば、その情報が正しくなかった場合に自分が納得できるかどうか。日常生活においては問題ないだろうけど、巨額や重責を伴う判断時に、それをするかどうか、だな。最後の最後、あらゆる情報を集めても最後の決定に関する情報がないときに、自分が何を信じて決断できるか、の根拠のありか。

神を信じてる?

Yes! と言いたいところだが、まだ聖書の学びが少ないので、「Yes!だと思う、思いたい」なんだな(笑)だから、答えは「神を信じてみたい。神を信じてみることにした。ちょっとずつ信じていっています。現在進行中。」という状態(笑)

神もきっと微笑んで見守ってくれることでしょう。

信じる心はトグルスイッチじゃないんだ。ボリュームスイッチなんだ。

ブレーカーに付いているのがトグルスイッチね。

一方、ボリュームスイッチって、オーディオの音量調整するあのスイッチね。フェーダー、スライダーといってもいい。

ある日、突然全開になるなんてことはない。毎日ちょっとずつ。だから、信じる心を育てなければ、自然とボリュームゼロになるのだろうし、育てていけば全開に近づくだろう。全開付近を維持できれば、神を信じている状態になるのだろうなぁ。

いつの日か、学びのレベルが上がり、自信を持って「神を信じているぞおぉおぉ!」と言えるようになりたい。

今日も心の精霊さんに栄養分を与えるために、静かに聖書を読むことにします。おっと、お昼が終わる。皆様も良い一日を。

(169回目のnote更新)



読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊