【随筆】わが郷愁の『南海コレクション』 ⑤
私が南海病院の院長室に通いはじめた1975年は、コレクター緒方保之氏が、絵のコレクションをはじめた年でもある。
院長室で、一番最初に見た絵を、はっきりと覚えている。
二列に重ねて立てかけられた先頭にあった、シャガールとビュッフェ。
しかしコレクターは、絵を見てはいなかった。
視線を、ガラステーブルにのせた分厚い二冊の本に落としていた。
「うーん、どちらにするかなあ。シャガールは、これから人気が出ると思うし、値もあがると思うんだ」
常に指に挟んでいる、アメリカ煙草をプカリ。
「でも僕は、ビュッフェが好きなんだよね!」
後頭部に両掌を当て、背中をのけ反らせて、天井を見上げる。
カリカリ。
これは、私がチップスターを囓る音。
たまにステレオからクラシックーーベートーヴェンが多かったーーが流れる以外は、無音。
とても、静かだった。
私が行くと、隣室の秘書に、誰もとおさないで、電話も繫がないで、と告げる。
そして絵を選ぶことに、専念する。
実のところ私は、シャガールという画家の名前など聞いたこともなかった。
(ヘンな絵…どこがいいのかしら)
口には出さないまでも、内心首を傾げていた。
人間と馬が、宙に浮かんでいる。意味がわからない。
もっとわからないのが、ビュッフェ。
コンクリートのようなものの上に、スプーンとフォークが置いてある。全体がグレー。
サッパリわからない。
緒方先生は、絵の値段を教えてくれた。
シャガールのほうが、100万円安かった。
(安くて、将来値があがるのなら、シャガールさんのほうがおトクじゃない)
田舎の高校生は、単純に考えた。
ポリポリ。ズズッ。
今や億単位で取引される、シャガールの剥き出しのキャンバスの目前で、お茶を啜りながらチップスターを囓る音。
長いことーー2カ月ほど同じ絵がそこにあったーー考え、先生はビュッフェを買った。
シャガールより100万円も高かったのだから、よほど気に入ったのだろう。
そのビュッフェが、現在、大分県立美術館OPAMで公開中の『静物』。
私が緒方先生と最初に見た、想い出の絵である。
お近くの方は、いえ、遠くの方も、ぜひご覧いただきく、思います。
そしてもし、私の姿を見かけても、お声掛けくださいませぬように。
今もって、この絵のよさは、サッパリわからないのです。
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