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歪んだ進化に気づいた時には

自信は、時として自分自身を思いがけない形で裏切る行為に走る。

そう考えた時、昔は…特に学生時代は努力した確信もないくせして妙に胡散臭い自信を抱えていたと振り返る。
例えば中間や期末試験に向けたテスト勉強や、資格を取得するために取り組んだ学習といった「本番」という自分の真価が試される場面が挙げられる。

その頃の私は、一つの物事に対して目一杯に時間を費やすことが非常に苦手…というよりも嫌悪感を抱いていた。むしろその考え方は大人になってから今もなお、ほんの1ミリ足りとも変わっていないかもしれない。

積み重ねてきた形を「渾身の一撃」という名のもとにかけて、全てが報われるかといったらそうなるとは限らないし、思い通りになる保障なんてまず誰彼どころか自分にも約束されていることなど一つもない。

実際に「おそらくこれがそこにでてくるだろう」という認識しておいた上で、あとは要点だけ押さえておけばそれでいいと楽観視していた。
そして肝心な知識を取り入れず努力すら怠った結果、その誤った過信となって裏目を見る羽目に対し、何度肩を落としたことだろう。

その行為はまさに「怠惰の極み」だったと思う。誰よりも劣っているという自覚があるからこそ、人一倍努力をしなければならなかったはずであったのに。

どれだけ人と肩を並べて歩こうとするも、本当はロクに前に進んでもいない。わかっていたにも関わらず、人よりも何か優れているものを見つけようと、たかが一歩前進しているという気分だけを味わいたかった。

方法さえ入手できればあとは不可能なんてないと、そのためだけに別方向を指している執着心を燃やし続けていた過去の自分が、本当に余りにも情けなく思ってしまう。

これが自分が今まで抱えていた自信なのだったと、そこで己の弱さを受け入れるきっかけが生まれた。

それと同時に気付かされた。多岐に渡って歪んだ進化を繰り返していたことを。

自己愛が強すぎて感受性すらまともに得ていなかったことも含め、人と比べて感情が欠如していることも。ただ今更振り返ったところで、何かが生まれたり報われたりするわけではない。

どれだけ負債という形を抱えていたかを気づくことができれば、ほとんど大したことないことだとしても自分にとって大きな収穫だったと思いたい。

故にほとんど、自分こそがあるいは目に見えているものが、もしくは肌で感じているものが全てだというように、それらを背負っていることに勘付いていないものも少なくはない。かくいう私も、まだ全てを把握しきれたわけではない。

だから今度こそは、二度も誤った道に足を踏み入れてしまうことにならぬよう、自信から確信へと形作っていくために再起をかけていかなければならない。

やがて最後には手と手を取り合って、本当に自分にとって大事なものが何だったのかを、自ら気づかせることができるように。


最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!