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政治講座ⅴ1656「拉致問題と北朝鮮の変質」

 中国と朝鮮半島を語るとき歴史的に言われる「事大主義」が深層心理が働いていると思われる。
 ロシアは経済的苦境に喘ぎ、そして、ロシアは北朝鮮にすり寄り、弾薬の補給を嘆願する始末である。
そして、尚且つ、中国も経済政策の失策で経済破綻状態である。
今まで、宗主国と崇めてきた国の凋落を目の当たりにして、政権保身のためにどこの国と歩んだ方が良いかの判断が今回の態度の変化を生んだ原因と考える。君子豹変である。
 さらに、日本について捏造歴史教育で反日教育をしている韓国を北朝鮮は明らかに軽蔑し出している。だから、北朝鮮は、韓国に民族統一などという美名を捨てたのである。
 中国へべったりだった韓国も中国同様に経済疲弊と経済破綻をきたしている。
このような隣国の惨状を俯瞰したなら、日本しか頼れる国はないのである。
 日本は朝鮮戦争には米国の要望にたいしても一兵卒の兵も出しておらず、武力攻撃もしていない。
 日本を争いに巻き込むための挑発(拉致)にも日本は武力による解決でなく、ひたすら話し合い解決を数十年間すすめてきた。
今回は事大主義の解説と報道記事を紹介する。過去を水に流して許しあえるかである。
日本が米国の非道(広島・長崎の原子爆弾で国際法違反の非戦闘員の子供・女性を数十万も虐殺した事実)に涙を流しながら非難を諦めて経済に特化して発展したように、北朝鮮のイデオロギーに固執せずに、実利を取り始めたと考えることができる。
 北朝鮮の拉致問題は彼らの戦争は続いていた戦争行為の一環と考えざるを得ない。実際、拉致はスパイ養成のためであった。しかし、そのようなことが無駄であったことが分ったので、北朝鮮の歩み寄りは本当に戦争の終結になるものと切望しているのである。

     皇紀2684年2月27日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

事大主義

 明確な信念がなく、強いものや風潮に迎合することにより、自己実現を目指す行動様式である。東アジアでは外交政策の方針として用いられたこともある。事大とは、大に事(つか)えること、つまり、強い勢力に付き従うことを意味し、その語源は『孟子』の「以小事大」(=小を以って大に事える)の一節にある。
孟子では、中国の戦国時代の諸国群雄割拠において、越が呉に仕えた例を挙げている。つまり「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが本来の意味であったが、漢代以降、中国では冊封体制すなわち周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。
こういった背景から中国(中原)への事大主義小中華思想は複雑な緊張・影響関係を保った。
北朝鮮においても、金日成国家主席(当時)は、朝鮮における事大主義は封建統治者のみならず、朝鮮革命運動家にも蔓延しているとし、
その例として「朝鮮共産党の承認取消問題」を挙げている。彼らは派閥抗争を繰り返し、それぞれがコミンテルンに事大し、自派の正統性を主張したことで、結局は承認を取り消される憂き目にあったとし、朝鮮革命運動を成就させるには「主体」を打ち立てなければならないとした。
北朝鮮の公式イデオロギーである主体思想の名称は、「事大主義の克服」という意味が込められている。

黄文雄は、「それでも半島として『事大(弱国が強国に仕える)』せざるをえない宿命がある。それは単に地政学的宿命だけでなく、精神構造的なしくみでもある。だから韓国人もつらいのだなと同情もする。確実に『事大』は唐以来、1000余年にわたり半島の精神伝統となり、さだめでもある。もちろん時代によってもその強弱の程度はちがう。たとえば、高麗朝よりも李朝のほうが強く、しかも徹底的である。かりに亡国しても大中華への忠は決して捨てないという徹底ぶりであった。明から清へと、牛から馬へ乗り換える際、朝鮮の朱子学者は死忠を頑なに守り通すことが『美徳』とまで説いた。中華帝国への朝貢国家の中で、朝鮮が『下国の下国』ともっとも蔑視されてきたことは、尹昕の『渓陰漫筆』に描かれている。それでも『事大一心』を守りきってきたことは、ほめてあげてもよいだろう。だが、『事大』をめぐる南北の差も大きい。たとえば、北のほうは高句麗時代以来の隋唐への強い抵抗と長い独自の歴史があった。現在の北朝鮮は『事大』よりもチュチェを強調し、『独立自尊』の気風も強い。だが、チュチュを強調しすぎると北朝鮮のように孤立してしまうという半島としてのさだめもある。もちろん事大の相手をどう選ぶかによっても、その国の運命が決められる。戦後、日米を選んだのが今日の韓国のさだめ、中ソを選んだのが北朝鮮のさだめとなる。それが朝鮮事大史の歩みから生まれた歴史的産物としての国家の運命ともいえよう。そのような長い歴史の流れからも、その精神構造を採ることがで きる。…事大の反面は『弱者いじめ』である。強者を恐れるあまり、そのうらみつらみから逆に徹底的に弱者いじめをする。この韓国人の民族性をよく知っている中国人は、韓国人に対して徹底的に高圧的な統治を行ない、効果を上げたのだ。相手を『復仇を断念させるまで、徹底的に弾圧』するというマキャベリの主張と同じ理論の『韓非子』の教えを、中国はすでに2000年余り前から実践してきたので、韓国人は『大国人』に対しては1000年以上も前にすでに抵抗をあきらめている」と評している。

「暴力団に連れてこられた」「漂流中に救助された」初の日朝首脳会談直前、拉致被害者に“隠蔽シナリオ”を強要した北朝鮮の謀略

集英社オンライン

約1年の事前交渉を経て、2002年9月17日、平壌市内で初の日朝首脳会談が行われた。両国は、国交正常化を目指す「日朝平壌宣言」に署名し、当時の金正日総書記は初めて拉致の事実を認めて謝罪した。その後、蓮池薫さんら被害者5人の帰国が実現するが、残りの不明者については「死亡」「入国していない」と主張するなど、提示された調査内容はあまりに杜撰なものだった。『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

初の首脳会談へ「日本に行く気ない」隠した本心

日朝首脳会談が行われる半年前の2002年3月、朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」に、日本人行方不明者を調査する用意があるとの記事が掲載された。蓮池薫さんは北朝鮮でこの記事を読み、「これは何か動きがあるかもしれない」と感じたという。

5月中旬になり、薫さんと地村保志さんが北朝鮮当局者から呼び出された。拉致問題について、2人が存在しているという事実を日本側に明らかにすると告げられ、「現在、そのための交渉を実務レベルで行っているところだ」と明かされた。さらに、保志さんは「拉致問題の解決についてどう考えるか。2人だけを出せば解決するか」と問われ、「それでは全くだめだ」と答えた。

薫さんは「拉致問題の解決についてどう思うか」とも聞かれた。言葉を慎重に選びながら答えた。「日本に行く気はない。ただ、拉致問題をきれいに解決しようとするのであれば、結局は自分たちを日本に帰国させるしかないのではないか

小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談 写真/Getty Images© 集英社オンライン 提供

実際にはそんな話はないのに、忠誠心を試すために指導員がカマをかけてきたのかもしれない。帰国したいという本心をさらけ出すことで、不満分子とみなされ、自分自身だけでなく家族にも不利益が生じるのではないか。そんな恐れを瞬時に感じ、このように答えたという。

日本に帰っても、北朝鮮のスパイではないかというレッテルを貼られ、両親や兄に迷惑をかけるのではないかという心配もあった。北朝鮮で生まれた子供たちへの影響も考えた。ただ、日本にいる家族には、自分が生存している事実を知らせたかった。首脳会談までの数カ月間、毎日のように悩み続けた心労から、体重はかなり減ったという。

帰国後、日本政府の聞き取り調査に「もし自分が帰国に対して積極的な態度を示していれば、今回の帰国はなかっただろう」と答えている。薫さんの直感が正しければ、同じようなチェックを受け、帰国できなかった人がいる可能性も考えられる。

拉致隠蔽のため用意された“台本”

指導員からは、日本に帰国した際に説明するための「台本」が用意された。「拉致されたのではなく、モーターボートが故障して沖で漂流しているところを救助された。北朝鮮で治療を受けているうちに、この社会はいいと思うようになった。日本人ということが周知されると何をされるかわからないので、在日朝鮮人と偽って定住するようになった」とのシナリオが用意されたのだ。

指導員と一緒にこのシナリオの内容を真実性があるように練り直し、質疑応答の練習も繰り返したという。薫さんは「『救助された』と言っても、日本側には通用しません」とも進言したが、この時点では聞き入れられなかった。「拉致された」という事実は伏せるように指導された。

このことは、薫さん自身も著書『拉致と決断』(新潮文庫)の中などで明らかにしている。

保志さんにも「海上で衝突事故を起こし、漂流していたところを救助され、在日朝鮮人と偽ってそのまま生活することになった」とのシナリオが用意された。保志さんは、それでは疑問を持たれると指導員に進言し、自ら「暴力団とトラブルになり、連れてこられた」とのストーリーを考えたところ、採用されたという。

蓮池さん夫妻が北朝鮮の工作員に拉致された新潟県柏崎市の中央海岸(©︎朝日新聞社)© 集英社オンライン 提供

6月になり、蓮池さん夫妻と地村さん夫妻は、約2年間を過ごした「双鷹招待所」から平壌市内のアパートに引っ越すことになった。「そこに住むのは一時的であり、一連の動きが終われば、もっといいアパートに住まわせる」と言われた。北朝鮮は、被害者を帰国させるつもりはなかったのだろう。ここでも、シナリオに基づく質疑応答の練習を続けた。

8月に入り、蓮池さんらは指導員から小泉首相の訪朝が決まったと伝えられた。その後、「日本政府の代表団と会うことになるかもしれない。会う際には蓮池薫、奥土祐木子であることを明らかにしてもよい」と言われた。

この頃になると、拉致は認めないとの当初の方針から転換しつつあるようだった。日本側から「拉致されたのか」と聞かれたら、こう答えるように指示されたという。

「肯定も否定もせずに、『想像に任せる』と言って適当にはぐらかすように。『詳しい内容については後で話す』と言うように」

拉致を認めるべきか、否定すべきか。北朝鮮が日朝首脳会談を控え、最終的な判断を決めかねていたことが窺える。薫さんは当時の心境について、日本政府に「その時は部分的ながら本当のことが言えるということで、気が楽になった。ただ、子供たちへの影響が心配だった」と話している。

一転して拉致を認めた北朝鮮

9月17日の首脳会談当日。薫さんらは平壌中心部の高麗(コリョ)ホテルの向かいにある施設で朝から待機した。午後になり、日本外務省の梅本和義・駐英公使と面会した。

首脳会談で金正日氏は「1970〜1980年代初めまで、特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走ってこういうことを行った」と述べ、拉致を認めた。保志さんは直前まで受けていた指示内容から考えると、指導員らは拉致を認めることを知らされていなかったのではないかと感じた。この時点では、薫さんも日本に帰国できるとは思っていなかったという。

久しぶりに日本から来た日本人と話が出来てうれしいと思う一方で、今後も北朝鮮で生活していくために、北朝鮮の公民としての立場を守るべきであるという気持ちから、梅本公使には警戒感を抱きながら慎重に言葉を選んだという。

外務省の外観© 集英社オンライン 提供

首脳会談の結果、日本政府が日本人拉致の事実関係を調べるため、調査団を平壌に派遣することが決まった。すると、蓮池さん、地村さん両夫妻には指導員から新たな指示が出された。

「今度は全てを話すことになる。だが、どこの機関によって拉致されたのかはわからないように、また、下部の人間が行ったというイメージを与えるように話すこと」

金正日氏が首脳会談で発言した内容との整合性を保とうとしたとみられる。

薫さんは、拉致されてからの詳しい経緯を知らない指導員から、「過去に他の被害者と一緒だったことはあるか」と聞かれた。薫さんは「地村さん夫妻とは一緒だったし、横田めぐみさんも知っている」と答えた。

すると指導員は、日本政府の調査団から横田さんについて聞かれたら、「1993年1月に入院し、その後に死亡したという噂を聞いたと話せ」と指示してきたという。だが、薫さんは1994年まで横田さんと顔を合わせる機会があった。その事実を指摘したが、指導員は「とにかく、言うとおりにしろ」と繰り返すだけだったという。

指導員は、北朝鮮が示した調査結果との整合性を懸念したとみられる。北朝鮮の調査がずさんであり、虚偽が含まれていることは、5人が帰国した後に日本政府に証言した内容で裏付けられることになった。

被害者の帰国巡る北朝鮮との駆け引き

首脳会談の11日後、9月28日に日本政府の調査団(団長・斎木昭隆・外務省アジア大洋州局参事官、11人)が平壌入りした。調査団は面会する相手が被害者本人で間違いがないかどうかを確認するために、事前に蓮池さん夫妻や地村さん夫妻の両親と会い、本人の特徴やエピソードなどを聞いてから訪朝した。

北朝鮮は日本に住む被害者の家族に訪朝を呼びかけ、再会させるつもりだったようだ。

「まずは家族を共和国に来させるように話せ。拉致問題への言及があった場合は、過去の植民地支配をもって反論せよ。ただし、激論は避け、いい関係を保つように」

薫さんが北朝鮮当局から指示された日本政府調査団との面談時のシナリオは、このような内容だった。再会した際に「日本に帰ってこい」という両親らをどう説得したらいいか。北朝鮮当局は、薫さんら被害者の意見も参考に検討していた。

実際に薫さんら被害者5人は調査団との面会聴取やビデオ収録で、「北朝鮮へ来て欲しい」と両親らに呼びかけた。日本にいる家族からは当然ながら、「北朝鮮に言わされているのではないか」「相手に連れて行かれたのに、こちらから引き取りに行くのはおかしい」といった疑問の声があがった。

家族会は訪朝を見合わせ、あくまで被害者の帰国を求める方針を決めた。


拉致被害者が24年ぶりに一時帰国。チャーター機から降りる、前列右から地村保志さん、地村富貴恵さん、2列目右から蓮池薫さん、蓮池祐木子さん、その左奥は曽我ひとみさん=2002年 10月15日、羽田空港(©︎朝日新聞社)© 集英社オンライン 提供

日本の家族の対応が功を奏し、10月に入ると、北朝鮮は日本政府に対して「5人の一時帰国を認める。日程は今月15日」と伝えてきた。指導員は薫さんに「日本に帰る気持ちはあるか」と尋ねた。

薫さんが「日本には行けないし、行かない。家族を呼び寄せるということで準備をしてきたのにどういうことだ。日本に行く目的は何か」と聞き返すと、「ただ、行って帰ってくるだけでいい」と言われたという。やりとりは約2時間続き、最後に指導員はこう言った。

「日本側が先生(薫さん)の一時帰国を要求しているので、日本に里帰りして来て欲しい。実はこれはもう決まったことだ。そうするしかない」

指導員はなぜ、始めから「一時帰国」が決まったことを明らかにしなかったのだろうか。薫さんは、自分の本当の気持ちを探るために再び、カマをかけてきたのかもしれないと感じたという。指導員は「子供も一緒に連れて行ってはどうか」とも言った。薫さんは「とりあえず、我々だけ(薫さんと祐木子さん)で行ってくる」と答えた。もし、この時に「子供も一緒に」と言っていたらどうなっていたのか。薫さんは、北朝鮮が何らかの理由をつけて、自分自身の帰国も許さなかったのではないかと考える。

保志さんも、「子供は置いていく」と伝えた。子供は連れて行ってもいいという口ぶりだったが、北朝鮮当局者の本心はわからなかった。

文/鈴木拓也

構成/集英社オンライン編集部ニュース班

写真/朝日新聞社


『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』

鈴木 拓也


「暴力団に連れてこられた」「漂流中に救助された」初の日朝首脳会談直前、拉致被害者に“隠蔽シナリオ”を強要した北朝鮮の謀略© 集英社オンライン 提供

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北朝鮮との水面下の接触は続いていた!

日本人被害者5人の帰国から21年。交渉は停滞したままと思われていた2023年、政府高官が東南アジアのある都市に極秘渡航し、朝鮮労働党関係者と接触していた。

数年前に外務省と北朝鮮の秘密警察「国家安全保衛部」とのパイプが途絶えた後、内閣官房の関係者が第三国で北朝鮮側と断続的に接触し、政府間協議の本格的な再開への意思を探り合ってきたのだ。岸田首相の「ハイレベル協議」発言と北朝鮮の外務次官談話は、5月の日朝接触とタイミングが重なる。

「拉致問題は解決済み」との態度を変えない一方、米韓と対立する北朝鮮は日本との対話を探っている。2024年1月1日に起きた能登半島地震被害を受け、北朝鮮の金正恩書記長が岸田首相に見舞いの電報を送った。これは一体何を意味するのか?

蓮池薫氏、田中均氏らキーパーソンたちが語る交渉の舞台裏と拉致問題の行方を追ったノンフィクション。

解説=斎木昭隆・元外務省事務次官(2002年と2004年、政府調査団として訪朝)

金与正が岸田首相に助けを求めた理由 最大の要因は「最後の同盟国」の裏切り

2/23(金) 6:00配信

危機の原因は韓・キューバ国交正常化

15日の談話で「個人的見解」を明らかにした金与正氏

 北朝鮮の金与正・朝鮮労働党副部長は15日に談話を発表。日本が政治的な決断を下せば「両国は新しい未来を拓くこと」ができ、岸田首相が「平壌を訪問する日が来るかもしれない」との「個人的見解」を明らかにして、大きな注目を集めた。
【写真】韓国では大統領“美人妻”の「収賄疑惑」…南北統一運動の牧師から「バッグ」を受け取る映像が流出

 北朝鮮は、内外共に危機的状況にある
これが、金与正副部長が「岸田首相への談話」を送った背景である。なかなか上手な談話文で、日本の新聞記者や解説記事、学者の分析は、目くらましの言葉に引っかかり、裏に隠された危機と真実に近づけない
「岸田の決意を見極めるため」との、トンチンカンなコメントもあった。これでは、北朝鮮の宣伝係と揶揄されても仕方がないか。
 金与正談話の前日(14日)、韓国政府はキューバとの国交正常化を発表した。日本ではほとんど関心を呼ばなかったが、北朝鮮にとっては驚愕すべき事態だ。
北朝鮮が国際社会で文字通り孤立してしまった事実を、確認する事件だった。

正恩氏にいつでも面会でき、直言できる立場

 北朝鮮では、指導者に直言・助言できる人物はいない。そんなこと をしたら、よくてクビ、悪いと収容所送りだ。体制は「英明な指導者」の指導で成り立っている。
だから、金正恩総書記を指導する人物はいないし、いたら困るのだ。
 軍の高官夫人が、夫に「指導者は何で軍事のことを、よく知っているのか」と聞いた。夫は自慢げに「俺が教えているから」と答えた。彼は翌日に逮捕され、追放に。家中に盗聴器が仕掛けられているのを、つい忘れてしまったのだ。
 そんな体制の中で、金与正副部長は、正恩氏にいつでも面会でき、直言できる唯一の人物だ。金正日氏の娘で正恩氏の実の妹である。その彼女が「岸田首相」名指しの談話を発表したのは、初めてだ。その理由は、北朝鮮が困っているからだ
 これがわからないと、金与正談話は理解できない。与正氏はナンバー2の実力者だ。北朝鮮では、正恩氏に直接面会し、直言できる人物が実力者だ。それができるのは彼女しかいない。1988年生まれの35歳。スイスへの留学経験があり、独語、仏語、英語を話す。金与正氏のポジションとは

 与正氏は、北朝鮮で強大な権限を握る国務委員会の委員で党中央委員会の副部長と、公式には紹介される。
どの機関の副部長かは、明らかにされていない
北朝鮮は、社会主義国である。
社会主義国は、労働党(共産党)が最大の実権を握り政府に指示を出す。  労働党の最高幹部は、政治局常務委員だ。彼女は35歳という若さのため、政治局常務委員にはなれない。だが、事実上政治局常務委員以上の権限を誇示している。平壌の中では、彼女への反発を感じる人たちもいる。そのため、肩書きは抑えられている
 それでも、宣伝扇動部副部長、組織指導部副部長、統一戦線部担当者と言われている。宣伝扇動部と組織指導部は、最重要機関である。北朝鮮の国内政治と指導者の権威は、「宣伝と扇動」によって支えられている。組織指導部は、幹部の人事を統括し、幹部の生活を支える。また政府と党の各部署の動きと政策を監督している。

大韓民国は「ない」から「ある」への逆転

 キューバは、北朝鮮にとって「最後の同盟国」であった。同じように社会主義を標榜し、反米同盟を結成した仲間だった。砂糖を安価で供給し、ミサイルや兵器を購入し、違法ビジネスにも手を貸した。その同盟国を失ってしまった。  昨年末からの北朝鮮の戦略変化と国内の混乱は、キューバに「裏切られた歴史的事態」のためだったのだ。
 北朝鮮は、昨年末まで韓国を「南朝鮮」と表記した。
これは、韓国という国家は存在しないとの意味で、軍事統一には必要な表現だった。つまり、国家でない南朝鮮に対しては戦争ではないから「軍事統一」できるとの理屈だ。
 正恩氏は昨年末に初めて「朝鮮半島に二つの国家がある」と語り、「大韓民国」と初めて、公式国名を述べた。昨年夏頃には『大韓民国』とカギカッコつきの表現があったが、これは「いわゆる大韓民国」の意味で、大韓民国を承認した発言ではなかった。  さらに、1月には与正氏が「尹錫悦大統領」と、正式名称で韓国大統領を呼んだ。これも、初めてのことだった。これらの金兄妹の発言は、北朝鮮が大韓民国を事実上承認したことを意味する。国家として承認すると、統一戦争は国際法違反だ。「内乱」との言い訳はできない。国家崩壊に直面するとの危機感

 北朝鮮は、なぜ「大韓民国」と「尹錫悦大統領」との正式呼称を認めたのか。韓国や日本では、「韓国への軍事統一に戦略を変更した」との見方が広がったが、これは間違いだ。国際社会からの孤立を避けて国連制裁を解除させないと、国家崩壊に直面するとの危機感を、指導者兄妹は深めたのだ。  北朝鮮は、極度の経済難と食糧難に直面している。さらに、若者の間に韓流文化への憧れが広がり、国家の正統性への疑問が生まれている。  この危機を打開するためには、日朝首脳会談で日朝正常化による経済支援が必要だ。また、大韓民国を承認して南北首脳会談を実現し、南北融和を掲げ、国連制裁を解除させたい。そのためには、11月の米大統領選でのトランプ大統領の再選が不可欠だ。
 このため内政、外交戦略の転換を図ったのだ。だが、その実現は簡単ではない。昨日までは「大韓民国」と言ったら逮捕されたのだから、国内の混乱は避けられない。拉致問題の解決なしには、日本は支援できない。国連制裁も核開発を進める以上解除できない。
 岸田政権がいつまで持つのかわからないのに、岸田首相に「訪朝」への誘導談話を出さざるを得ない事態は、北朝鮮の危機を雄弁に物語っている。

重村智計(しげむら・としみつ) 1945年生まれ。早稲田大学卒、毎日新聞社にてソウル特派員、ワシントン特派員、 論説委員を歴任。拓殖大学、早稲田大学教授を経て、現在、東京通信大学教授。早 稲田大学名誉教授。朝鮮報道と研究の第一人者で、日本の朝鮮半島報道を変えた。 著書に『外交敗北』(講談社)、『日朝韓、「虚言と幻想の帝国の解放」』(秀和 システム)、『絶望の文在寅、孤独の金正恩』(ワニブックPLUS)など多数。 デイリー新潮編集部

韓国は「敵」、日本とは「対話」…金与正氏の“ラブコール”が個人的見解ではないこれだけの理由

FNNプライムオンライン によるストーリー • 5 日

韓国は「敵」、日本とは「対話」…金与正氏の“ラブコール”が個人的見解ではないこれだけの理由© FNNプライムオンライン

北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記の妹・金与正(キム・ヨジョン)党副部長が日朝関係の改善を呼びかける談話を発表し、その真意に注目が集まっている。

「悪口姫」の個人的な“ラブコール”ではない

北朝鮮の朝鮮中央通信が2月15日に配信した談話で、金与正氏は次のように述べ、日本との関係改善に期待を示した

日本が政治的決断を下せば、両国は新しい未来を共に開ける

「日本が北朝鮮の正当防衛権に言いがかりをつけたり、拉致問題を障害物にしなければ、首相が平壌を訪問する日が来る可能性もある」

岸田首相が同月9日の国会答弁で、日朝関係について「大胆に現状を変えていかなければならない必要性を強く感じる中、トップ同士の関係を構築していくことが極めて重要だ。私自ら必要な判断をする」と答弁したことを受けたものだ。

与正氏は岸田首相が金総書記との首脳会談を重視し、「自ら必要な判断をする」と自身の決断を強調したことを評価。そのうえで「過去の束縛を脱して日朝関係を大胆に前進」させ、「時代錯誤的な敵対意識と実現不可能な執念」を捨てる「政治的決断」を取るよう促した。

談話の中で与正氏は、あくまで個人的な見解であり、北朝鮮指導部は朝日関係改善の構想は持っておらず、接触に何の関心もないと予防線を張ってはいるものの、北朝鮮で個人の見解が通用するとは考えにくい。

与正氏はこれまでも金総書記の名代として、金総書記自身が直接口にしにくいことを国際社会にメッセージとして発し、その反応を見る羅針盤的な役割を果たしてきた。

相手を攻撃する時は「特大の阿呆ども」「犬畜生」といった罵詈雑言も躊躇なく使い、口の悪さが際立っていた

今回はそうした「悪口」は影を潜める代わりに「先見性と戦略的眼目」「意志と実行力を持った政治家」「チャンスをつかみ、歴史を変えられる」など岸田首相をその気にさせるような美辞麗句が並んだ。文言からも北朝鮮側が日本との関係改善にかなりの期待を寄せていることが窺える。

なぜ今、日本と「対話」なのか

では、北朝鮮はなぜ今、日本との関係改善を望むのだろうか。

北朝鮮は2023年末の党の重要会議で、韓国との関係をこれまでの「一つの民族、一つの国家、二つの体制」から「交戦国」「敵国」へと統一・対南政策の路線を根本的に転換した。また、韓国の歴代政権が保守・革新問わず、北朝鮮の「吸収統一」「体制転覆」を国策としてきたと指摘、これ以上韓国を統一や和解の対象にしないことを宣言した。これを受けて年明けから「対南部門の整理・改編」や、憲法や愛国歌などから「統一」「同族」を象徴する用語を削除するなどの見直し作業が急速に進められている。

金総書記は韓国との「国境」を画定し、憲法に規定することも指示した。北朝鮮は南北の海の境界線とされるNLL(北方限界線)について認めていない。韓国側はNLLの南側を韓国領土としており、今後はNLL周辺で武力衝突の懸念が高まっている。

北朝鮮は年初からNLL周辺での砲撃訓練や、新型巡航ミサイルなど各種ミサイルの発射実験・訓練を繰り返していて、4月の韓国総選挙に向けてさらなる武力挑発を仕掛けてくる可能性が高いと見られている。

韓国に対しては「対決姿勢」を全面的に打ち出し、軍事的な緊張を最大限に高めるのとは対照的に、日本に対しては「対話のシグナル」を送ってきた
金総書記は能登半島地震の見舞い電で岸田首相を初めて「閣下」と呼び、地震の被害に哀悼の意を示した。

合同演習や米戦略資産の韓国への定期的な投入といった日米韓による拡大抑止政策は、北朝鮮への大きな軍事的圧力として作用している。北朝鮮としては日本を取り込み日米韓の連携に少しでもくさびを打ち込みたいというのが本音だろう。

しかし、それだけではない。北朝鮮はロシアや中国と組み、「反米」戦線の拡大を試みているが、究極の目標は米国と関係を正常化し、金正恩体制を維持することにある。
北朝鮮は2017年にも朝鮮半島の軍事的緊張を急激に高めたが、翌2018年には対話に転じた。

その際は韓国が米国との橋渡し役を務めたが、今回は日本にその役割を期待していると考えられる。

米国の次期大統領選挙の結果もにらみながら、出口戦略を模索する一環と言ってよいだろう。北朝鮮の狙いは「非核化交渉」ではなく「核軍縮交渉」への転換と制裁の解除にあることは間違いない。

日本の取るべき道は?

与正氏は談話の中で2度にわたり「拉致問題」は解決済みと強調した。また、核ミサイル問題についても正当防衛だと主張している。

日本がこれまでも強く求めてきた「拉致問題」と「核・ミサイル問題」を北朝鮮側と話さないのであれば、首脳会談の意味は無い。そのことは北朝鮮も十分承知の上だ

重要なのは北朝鮮側が、従来の主張を繰り返しながらも日本に対し「関係改善」を呼びかけてきたことにある。

ウクライナや中東での軍事衝突により、国連安保理が機能不全に陥っている今、国際情勢は一見、北朝鮮にとって有利に見える。しかし、どんなに核ミサイル開発を進めても、日米韓との対決状態が続く限り北朝鮮が最も警戒する体制崩壊のリスクは続く。北朝鮮にとって出口戦略が切実なのはそのためだ。

北朝鮮との交渉は非常に難しい。会談の主導権を握ろうと北朝鮮側が持ち札を常に隠そうとするからだ。拉致問題も核・ミサイル問題も膠着状況にある今、まずは北朝鮮を対話の場に引き出すことが何より重要だろう。

その上で日本側は日米韓の主張をきっちりと伝え、北朝鮮がミスリードしないように促す必要がある。

北朝鮮にとっても日本との対話が「機会」になりうることを理解させられれば、現在の「対決一辺倒」から対話を通じた状況の管理につながる。日本外交の真価が問われる。

(フジテレビ客員解説委員、甲南女子大学准教授 鴨下ひろみ)

金与正氏の談話に“大きな正念場” 拉致被害者・蓮池薫さん「異例なことであり、チャンスだ」【新潟発】

FNNプライムオンライン によるストーリー • 

金与正氏の談話に“大きな正念場” 拉致被害者・蓮池薫さん「異例なことであり、チャンスだ」【新潟発】© FNNプライムオンライン

北朝鮮による拉致被害者・蓮池薫さんが新潟県関川村の小・中学生に講演し、「拉致問題はまだ終わっていないと意思を示し続けることが重要だ」と訴えた。また、北朝鮮の金正恩総書記の妹・与正氏が岸田首相の訪朝の可能性に触れる談話を発表したことについて、「異例なことであり、チャンスだ」と訴えた。

蓮池さん「意思示し続けることが重要」

2月20日、関川村の小中学生に講演したのは、北朝鮮による拉致被害者で2002年に帰国した蓮池薫さんだ。

今(拉致被害者を親に)会わせなかったら、親の世代がもしみんな亡くなってしまったら、意味があまりないでしょ

蓮池さんは横田めぐみさんなど、いまだ帰国できていない拉致被害者の親世代がめぐみさんの母・早紀江さんを含め2人だけになったとして、日本にとっても、北朝鮮にとっても「もう時間がない」と強調。

そして、拉致問題解決には国民が意思を示し続けることが重要だと訴えた。

「北朝鮮が『(今の状態が)このまま続いていけば終わるだろう、静かになるだろう』と思っているところを皆さんから協力してもらって『我々は忘れないぞ』というメッセージを出していく」

講演を聞いた児童は「これからまた、小さい子たちにもこの情報を広めて(拉致被害者を)助けたいなと思った」「めぐみさんとかが戻ってこられるように協力していきたい」と話した。

金与正氏の談話に「大きな正念場」

一方、2月15日に北朝鮮の金正恩総書記の妹・与正氏が岸田首相の訪朝の可能性に触れる談話を発表したことについて、蓮池さんは「異例なことであり、チャンスだ」とした上で、政府にはオールジャパンで日朝首脳会談を実現してほしいと訴えた。

「チャンス=非常に大きな正念場。最後のチャンスという覚悟でやってほしい」

(NST新潟総合テレビ)


なぜ北朝鮮は日本人を拉致したのか?「工作員養成機関への入学話」「東大生と仲良くなれと言われ…」帰国した被害者が証言した無謀すぎる計画「日本人をスパイにする意図があった」

2024.02.23
北朝鮮による日本人拉致は、主に1970年代から1980年代にかけて行われた。2002年の日朝首脳会談で北朝鮮は初めて拉致の事実を認め、その目的に関して「工作員への日本語教育のため」「日本人の身分を使い韓国に潜入するため」と説明。しかし、帰国した被害者らの証言によると、その計画はより現実味のない無謀なものだった。『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

日本人拉致の目的とは?帰国した被害者の証言

1978年7月、福井県小浜市でデート中に拉致された地村保志さん・富貴恵さん夫妻は、工作船で北朝鮮北東部の清津(チョンジン)に到着後、丘の上の「招待所」と呼ばれる隔離された施設で一晩過ごし、寝台列車で平壌に送られた。2人は引き離され、保志さんはまず、平壌市内の「円興里(ウォンフンリ)招待所」で1カ月間、金日成(キムイルソン)国家主席の著書や主体思想などの本を読むことを強要された。

保志さんは次に、朝鮮労働党対外連絡部に所属する平壌郊外の「順安(スナン)招待所」に移された。対外連絡部は、かつて存在した対南工作機関だ。9月ごろから朝鮮語学習をスタートさせ、11月からは蓮池薫さんとの共同生活が始まった。特に担当の教師がいるわけでもなく、独学で朝鮮語を覚えていった。当時の北朝鮮は卓球ブームが起きており、息抜きのためによく卓球をしていたという。

一方、富貴恵さんは平壌市中心部の「牡丹峰(モランボン)招待所」に送られた。最初は、映画や革命歌劇の鑑賞、革命史跡や博物館などの社会見学に連れて行かれたという。9月初めに、同じく拉致被害者の田口八重子さんとの共同生活が始まった。

工作に使うために拉致してきたから、こちらに来た経緯、本名や生年月日は言うな

指導員からはこう命令された。当初はお互いに話しかけることを控えたが、次第に拉致された状況や日本にいる家族のことなどを打ち明けるようになったという。富貴恵さんも9月から朝鮮語の学習が始まった。

北朝鮮・平壌市内=1990年9月25日【写真は『北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より出典・©︎朝日新聞社】

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翌1979年1月、富貴恵さんは田口さんと一緒に「円興里招待所」に移った。2人は共同生活をしながら、朝鮮語を学んでいった。思想教育のために学校に通わせるという話もあったそうだが、立ち消えになったという。富貴恵さんは「金正日政治軍事大学だったのだろう」と回想している。

金正日政治軍事大学とは、平壌にある工作員養成機関のことだ。卒業生は韓国や日本、中国、欧州各国に身分を隠して潜入し、様々な工作活動に従事しているとされる。

その後、11月に保志さんと富貴恵さんは平壌市郊外の「忠龍里(チュンチョンリ)招待所」に移され、北朝鮮当局に勧められて結婚した。以降、日本への帰国が実現するまで、2人は一緒に生活し、再び引き離されるようなことはなかった。当局の指示で、保志さんは同じ招待所に住む工作員数人に日本語を教えることになった。

日本国内で次々発生「アベック失踪事件」

富貴恵さんを思想教育するために学校に入学させるという計画はなぜ、立ち消えになったのか。保志さんは、日本政府の聞き取り調査に対して、次のように証言している。

「拉致直後の1979年1月ごろ、自分たちは学校に送られて、工作員としての教育を受けるということだった。短期の訓練で日本に送り返すということかと思った。しかし、4月ごろになり、その話が突然取りやめになった。日本国内で自分たちの失踪が問題となり、工作員として使えなくなってしまったらしい

蓮池さん夫妻が北朝鮮の工作員に拉致された新潟県柏崎市の中央海岸(©︎朝日新聞社)

福井県小浜市で保志さんと富貴恵さんが連れ去られた1978年7月は、新潟県柏崎市で蓮池薫さんと祐木子さんが、8月には鹿児島県日置郡(当時)で市川修一さんと増元るみ子さんが拉致されている。この3件の事件直後には、富山県高岡市で海水浴から戻る途中だった20代のカップルが複数の男に襲われる事件も起きた。

2人はさるぐつわをされるなど身体を拘束されて袋に入れられたが、たまたま近所の人が通りかかったことから犯行グループが逃走。事件は未遂に終わっている。当時の警察は捜査により、さるぐつわに使われたゴムが国内メーカー製ではないことや、2人を襲った男たちの話し方などから、犯人は日本人ではないと判断していた。警察当局では当時、この事件や3件の「アベック失踪事件」は、北朝鮮の工作機関が関与しているのではないかとの疑いを持っていた。

一方、1977年11月10日付の朝日新聞朝刊の社会面には、約2カ月前に石川県能都町(現・能登町)の宇出津海岸で失踪した東京都三鷹市役所の警備員、久米裕さんについて、次のような記事が載った。当時からすでに、失踪事案に北朝鮮の関与を疑う報道があったのだ。こうしたことはあまり知られていないが、大事なことなのでほぼ全文を紹介する。久米さんは後に、政府により拉致被害者に認定された。

久米裕さん失踪に“北朝鮮の関与”報じた記事

《東京都三鷹市役所の警備員(民間会社)が9月中旬、突然姿を消したため、警視庁公安部などで調べたところ、この警備員はすでに、石川県・能登半島沖から、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作船で密出国していた事実が9日明らかになった。

この警備員は、国内で北朝鮮工作員によって懐柔されたらしく、送り出しに関係した工作補助員1人が、これまでに石川県警に逮捕されている。在日韓国人が工作されて北朝鮮に渡ったケースはこれまでにもあるが、日本人が懐柔されて渡った事実が明らかになったのは初めてで、公安当局は、強い衝撃を受けている

この警備員は、保谷(ほうや)市内に住む久米豊〔裕〕さん(51)。公安当局や三鷹市役所などの調べでは、久米さんはさる9月、「別れた女と復縁する」との理由で、17日から22日まで6日間の有給休暇をとり、姿を消した。

久米さんの密出国がわかったのは、朝鮮慶尚北道慶山郡出身で、東京都田無市内に住む建設会社社長A(38)の逮捕から。公安当局の調べでは、Aは9月19日、石川県鳳至(ふげし)郡能都町宇出津の海岸や同海岸近くの旅館で、不審な動きをみせた。能都署がAを任意同行して、外国人登録証の提示を求めたところ、拒んだため、外国人登録法違反(不提示)の現行犯で逮捕した。

海上保安庁の巡視船の追跡を振り切り、高速で逃げる北朝鮮の不審船=1985年、鹿児島県奄美大島の北西約320キロの東シナ海【写真は『北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より出典・©︎朝日新聞社】

同署が能登半島に来た目的についてAを追及したところ「相棒は海岸で急に姿が見えなくなった」などと自供した。Aのいう「相棒」についてさらに事情を聴いたところこの「相棒」とは警備員の久米さんで、Aは久米さんを宇出津海岸の沖から北朝鮮の工作船に乗せたことを自供した。

このためAは出入国管理令違反(密出国ほう助)の疑いで再逮捕された。また、同県警がAの自宅を同容疑で家宅捜索した結果、乱数表など工作員に必要なスパイの「七つ道具」が出てきたという。

公安当局は、久米さんがAとどういうふうに関係をもったのかはっきりつかんでいないが、Aが金貸しをしていたとの事実をつきとめており、金に困った久米さんが借りているうち、借金がふくれあがり、Aにとりこまれた、との疑いを強くしている。

警視庁や石川県警など公安当局は、なぜ日本人を北朝鮮に送り出す必要があったのか、などについても、詳しく調べているが、久米さん自身を工作員として使おうとしたのか、あるいは久米さんの密出国がわからなければ、北朝鮮の工作員が久米さんになりすまし、わが国での情報工作や韓国への密入国なども可能となるわけで、こうしたねらいから久米さんをあえて工作したのではないか、と推測している。また、Aの周辺には日本人を工作して北朝鮮へ送り出す非公然組織が存在しているとみて捜査を続けている

日本国内の報道で断念「潜入工作員」養成計画

日本ではこの当時、北朝鮮が日本人を拉致したという事実を直接伝える報道はなかった。久米さんの動向を伝える記事も、工作員にそそのかされて自らの意思で北朝鮮に渡ったのではないかとの印象を与えるものだった。

だが、地村さんが日本政府に証言した内容からは、北朝鮮が当時、日本で相次ぐアベック失踪事件や久米さんに関する報道を重視していたことがうかがえる。拉致した日本人被害者を洗脳し、工作員に育て上げて日本や韓国に潜入させるという計画はあまりに無謀だということにようやく気付いたのではないかと推察される。

拉致被害者が24年ぶりに一時帰国。チャーター機から降りる、前列右から地村保志さん、地村富貴恵さん、2列目右から蓮池薫さん、蓮池祐木子さん、その左奥は曽我ひとみさん=2002年10月15日、羽田空港(©︎朝日新聞社)

蓮池薫さんたちも、日本政府に同じような証言をしている。

薫さんと祐木子さんは1978年7月31日に新潟県柏崎市の中央海岸で拉致され、北朝鮮の工作船により一晩かけて清津に連れて行かれた。清津には、日本に工作員を送り込むための工作船を運用する朝鮮労働党作戦部(現・朝鮮人民軍偵察総局)の連絡所が置かれていた。清津に着いてからはそれぞれ別の招待所に送られた。薫さんは襲われた際に顔を殴られており、目のあたりが腫れ上がっていた。清津の招待所ではまず、その治療が行われ、正面と横からの証明写真も撮られたという。

薫さんは8月上旬に、平壌郊外にある平壌国際空港近くの「順安招待所」に移された。そこでは、金日成氏の生家訪問や映画鑑賞など北朝鮮という国家を理解するための「現実体験」や朝鮮語の勉強が始まった。

急性肝炎にかかり、「915病院」という工作員の専用病院に2カ月ほど入院し、11月に再び順安招待所に戻された。この時に地村保志さんと出会い、1年間にわたって現実体験や朝鮮語の勉強をしながら共同生活を送った。朝鮮語は先生から教わるわけでもなく、金日成総合大学の留学生用のテキストを使って独学で覚えていったという。

1979年11月に保志さんと別れ、平壌市内の「龍城(リョンソン)招待所」に移された。ここでは半年近く過ごし、日本語が上手で中国語も少し話すことができる工作員と身ぶり手ぶりを交えながら意思疎通を図った。一緒に食事をしたり、映画館に行ったりしたこともあったという。この工作員は「ハン」という名前で、ベトナム戦争では従軍記者をやっていたという。薫さんは日本政府にこう証言している。

北朝鮮の工作員は2つも3つも名前を持っているので、どれが本当の名前なのかはわからない。公民として登録されている名前もよく変わるから、なおさら訳がわからない

蓮池薫さん証言「我々をスパイにしようと…」

1980年5月、朝鮮労働党対外情報調査部(現・朝鮮人民軍偵察総局)の拉致担当部署の「課長」が薫さんを訪ねてきた。対外情報調査部は韓国をはじめ海外での情報収集やスパイ活動、テロなどの工作活動を担い、拉致被害者が住む招待所も運営していた。

課長は「一緒に来た女性と結婚しないか」と持ちかけてきた。祐木子さんのことだ。薫さんと祐木子さんは龍城招待所内にある「5号特閣」と呼ばれる、招待所よりも規模が大きく施設もホテル並みの施設で結婚式を挙げ、新婚生活に入った。

祐木子さんは薫さんと再会し、結婚するまでの間、やはり薫さんと似たような生活を送っていた。

工作船で清津に到着すると、港の見える丘の上の招待所に連れて行かれた。そこで数日間滞在した後、同じ清津市内の豪華なホテル並みの招待所に移された。拉致されてから1カ月も立たないうちに、薫さんと同じ平壌郊外の「順安招待所」に移され、数カ月過ごした後に今度は平壌中心部の招待所に送られた。そこで指導員に引き合わされたのが増元るみ子さんだった。祐木子さんと増元さんは共同生活をしながら、朝鮮語の勉強を始めた。

その後、1979年2月ごろに2人とも平壌市中心部に近い「レンチョン招待所」に、夏には再び「順安招待所」に移り、就寝時間以外は勉強や食事も一緒にしたという。だが、2人の共同生活が長く続くことはなかった。10月下旬に引き離され、祐木子さんは平壌市郊外の「東北里(トンブクリ)招待所」で半年以上生活した後、1980年5月に龍城招待所に移り薫さんと結婚した。

金日成広場にある金日成主席と金正日総書記の肖像画 写真/Shutterstock.

北朝鮮当局はなぜ、拉致直後に薫さんと祐木子さんを引き離して別々の施設に収容したのだろうか。薫さんは結婚するまでの期間を振り返り、日本政府に対してこう証言している。

「北朝鮮は当初、我々を工作員として使おうとしていたのだろう。実際にそういう雰囲気はあったし、指導員からは『日本に行って東大生と仲良くなれ』と言われていた。自分は北朝鮮に行った当初は反抗的であり、『東大生は自分など相手にしない』と反発したり、日記に指導員の気に入らない言動を書いたりしていたので、工作員としては使えないと判断したのではないか。当初、自分たちを別々にしたのも、それぞれに朝鮮人の工作員をパートナー兼監視役としてつけて、スパイにしようとの意図があったと思う

鈴木拓也

朝日新聞元ソウル特派員

1975年、神奈川県生まれ。産経新聞を経て、2003年に朝日新聞入社。社会部で警視庁捜査1課、政治部で首相官邸や外務省などを担当。2019年12月〜2023年3月、ソウル支局に赴任。日韓関係や北朝鮮問題を中心に取材を続けてきた。

参考文献・参考資料

「暴力団に連れてこられた」「漂流中に救助された」初の日朝首脳会談直前、拉致被害者に“隠蔽シナリオ”を強要した北朝鮮の謀略 (msn.com)

金与正が岸田首相に助けを求めた理由 最大の要因は「最後の同盟国」の裏切り(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

韓国は「敵」、日本とは「対話」…金与正氏の“ラブコール”が個人的見解ではないこれだけの理由 (msn.com)

金与正氏の談話に“大きな正念場” 拉致被害者・蓮池薫さん「異例なことであり、チャンスだ」【新潟発】 (msn.com)

事大主義 - Wikipedia

なぜ北朝鮮は日本人を拉致したのか?「工作員養成機関への入学話」「東大生と仲良くなれと言われ…」帰国した被害者が証言した無謀すぎる計画「日本人をスパイにする意図があった」 | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい (shueisha.online)

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