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政治講座ⅴ1553「秦の滅びた理由と組織の寿命」

 今の中国共産党の習近平氏の指導する中華人民共和国の現状は秦が滅びた理由と酷似していることに驚いている。
歴史は繰り返される。以前組織の寿命について論じたが、組織は2000年前と本質的には変わっていないことが歴史から分かる。今回は文明の利器のAIで次の質問をして、回答を得たので私見と並列して紹介する。

     皇紀2683年12月19日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

秦の滅亡理由は、以下の要因が挙げられる

(AI)の回答と私見

  1. 大規模な土木工事(AI) 始皇帝は、自身の墓、阿房宮、万里の長城の建設に着手し、多くの人々を強制的に動員しました。これにより、民衆の不満が高まり、秦王朝は短期間で崩壊しました。                   (私見)今の中国も同様に鬼城マンションを無数に立てて、融資平台などの外郭団体を使った資金調達が焦げ付いて返済不能に陥ている。不動産崩壊が金融崩壊へと連鎖崩壊している。住宅ローンを借りてマンションを買ったはいいが未完成物件で住めない状態で、住民の不満が溜まっている。そのために、住宅ローンの返済を拒絶する不満を持つ住民が警察により弾圧されている、

  2. 法律の強制施行:(AI)  秦は厳格な法律を採用し、法を破ると王族でも処罰され、法を守り手柄を立てると、どんなに卑しい身分でも褒美がありました。しかし、秦以外の六国の法律は、秦とはまるで違いました。秦は、いきなり秦の法律を六国の民に押しつけ、多くの人民が処罰されました。                        (私見)今の中国もスパイ法や国家安全保安法などで治安を乱すものとして取り締まりを強化している。言論の自由もなく、思想教育の徹底し弾圧している。焚書坑儒と同じことをしている。

  3. 度重なる暗殺未遂:(AI)  始皇帝は、3回の暗殺未遂に遭遇し、度重なる暗殺未遂により、他人を信用しなくなり、宦官、趙高のようなお気に入りばかりと会うようになりました。それが、最後には、遺言書を趙高に書き換えられる事に繋がり、趙高の保身による、皇族や重臣、将軍の大粛清へ突き進んでいきました。始皇帝が「間違った欲」と「甘言」によって大敵を作ってしまったと指摘しています。また、始皇帝は度重なる暗殺未遂で疑心暗鬼になり、諌める儒家を抹殺し、後継者の育成にも失敗したことが、秦が短期間で滅んだ原因とされています。            (私見)今の中国も習近平は暗殺を恐れて、多数の護衛を引き連れて国内や海外に出ている。側近も信用されず、外務大臣や防衛大臣も粛清されているようである。その他、綱紀粛正の名のもとに大多数の粛清が行われているようであるが、残念ながら、情報が隠蔽されているようである。

  4. 中央集権制の弊害:(AI)  秦は、中国史上初めて、各地に王を置かない、中央集権制を採用し、中国は、一人の皇帝が独裁的な権力を握る帝国になりました。ところが、いざ、反乱が起きると、郡と県の長官は軍を動かす権利がないので、反乱軍と戦う事が出来ませんでした。そればかりか、皇帝と何の血縁もない役人達は、援軍が無いと分ると進んで反乱軍に協力して、自分達も秦に背いたのです。以上のような理由から、秦王朝は短期間で崩壊しました。     (私見)今の中国の習近平の独裁政権は部下の忖度の弊害があり、意見具申されずに、経済や世界からの信頼が毀損されてきている。そして、海外に対する外交は戦狼外交という悪たれ外交に徹しており、まともに話し合える環境にない。そして、近隣の諸外国には領土拡張の意図を持ち、侵略を繰り返している。この様に、秦が滅びた理由と現在の中国に共通点が起因となって中国共産党のするであろう。ここからが吾輩の考察であるが、今の中国の経済が破綻する可能性を秘めている。その原因はゼロコロナ以降、雇用、消費、輸出入の減少、半導体を巡る米中対立、「一帯一路」(覇権構築)の「債務の罠」と酷評され、反スパイ法の実施で拘束される者がいて、中国への投資リスクにより、それらの投資資金が中国から逃げ出している。このように、組織の権力乱用と横領などでその組織が内部から腐敗していく。その腐敗防止と綱紀粛正で成り立っている習近平政権であるが、独裁色が強すぎて、経済はボロボロになってもまだ、綱紀粛正が強すぎて、粛清される者が多く、結果、忖度や責任転嫁の組織になり下がって、経済破綻まで追い詰められているのである。

大陸を統一した秦が滅亡した理由

(参照:大国である秦が滅亡した理由は何だったのでしょう | 茶山(さやま)の関心事セット (iineiineiine.net))

東アジアの古代の歴史や中国大陸の王朝の歴史、特に秦(しん)王朝にまつわる話題について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では中国大陸で二百年近く続いたいわゆる戦国時代を終わらせ、他の強国を倒すことで大陸の広大な地域を統一することに成功した大国、秦王朝があまり長く続かずに滅亡してしまった理由が何であったのかについて私なりに書いてみたいと思います。秦の王様、政さんが諸国を統一することに成功したのち始皇帝(しこうてい)となりますが、統一に成功したのが紀元前221年と言われており、滅亡した年は紀元前206年とされています。ということで秦は統一に成功してから、たった15年で滅んでしまうこととなりました。戦国時代、秦も含めて戦国七雄と言われた強国七カ国が生き残りをかけて争い、最後まで存立することに成功した大国にしては継続出来た期間があまりに短すぎると言えるのではないでしょうか。それまでに誕生していた王朝と比較しても話にならないくらいの短さです。ちなみに以前取り上げた古代中国大陸の王朝である殷(いん)は紀元前1600年から紀元前1050年くらいまで続いたと言われていますし(500年以上続いたということですね)、その後に誕生する周王朝も異民族に攻められて都を東方に移し決定的に弱体化したのが紀元前770年頃と言われているので、王朝が誕生して300年くらいは経過しています。始皇帝もそんなに早く国が亡びるなどとは思ってもいなかったことでしょう。しかし実際には始皇帝がこの世を去ったことが世の中に知れ渡った後、国内の各地で反乱の動きが起こり、最終的には反乱勢力に秦が降伏、国が無くなってしまいました。強かったはずの秦。どうしてこうなってしまったのでしょう。様々な理由が指摘されているようですが、一般の人々の間でかなりの不満がたまっていたことや、秦の政権内で出世した特定の人物に相当な問題があったということが秦滅亡の理由として挙げられるかと思います。

とても厳しい仕組み

以前の記事でも取り上げましたが、統一後の秦王朝の政策の一つとして大規模な建設事業があります。始皇帝本人の死んだあと埋葬するためのお墓もそうですし、北方の異民族の侵入を防ぐための防護壁とするために、それまでの設備をさらに充実させようとして造られた万里の長城も当てはまりますし、皇帝が使用するための大変大きな宮殿(阿房宮あぼうきゅうと言われます)の建設事業も進められました。こういった建設事業を実際におこなうのは始皇帝本人なわけはなく、罪人と定められた人や一般の農民の方々だったようです。罪人たちならまだ矛盾も少ないのかもしれませんが、農民の方々が大勢動員されるというのはそういったかり出される方々にとって相当な負担となりました。そもそも農民の方々は自分たちの仕事、農作業をしなければいけません。そうしなければ食べていけなくなりますし、食料確保ということの他にも秦の政権に納めなければならないと決められていた収穫物も得られなくなります。まずこの建設労働自体に相当な負担がありますし、この労働が理由で農作業が滞り収穫物が少なくなってしまい決められた税を納められないということになるとその農民は罪人とされてしまいました。罪人となると余計負担も増やされてしまいます。また、工事がおこなわれる現場に「いついつまでに来るように」と国から命令が出た場合は本当に気を付けなければならなかったようです。工事現場に決められた時までに到着しなければ厳しい罰が待っていたからです。厳しい罰というのは結局のところ死罪です。遅刻したら殺される羽目になってしまうのです。秦という国は戦国時代から法律を厳格に運用するという特徴がありましたが、こういった面で厳格に規則が適用されることで政権に恨みを持つ人々が増えていったと見られています。このような厳しい負担は始皇帝がこの世を去った後も特に変わらなかったようです(秦の政治について調べてみても、二代目皇帝以降で政治の大改革がおこなわれたといった内容を目にすることは特にありません)。一般の民衆の方々の立場になれば反乱を起こす動機にもなることでしょう。

重用した人材の暴走

始皇帝が重要な家来としていた人物は数多くいたのでしょうが、その中の一人の人物がかなり秦という国の寿命を短くしたのではないかと思います。その人物は趙高(ちょうこう)と言います。彼の振る舞いについて相当問題であったことは指摘がかなり多いので私が言うまでもなくご存じの方も多いのかもしれません。国の頂点に立っていた始皇帝は絶大な権力を持っていた一方で統一成功の前に比べ、より一層命を狙われることにもなり疑心暗鬼となって、ごく限られた家来を重用したのだそうです。趙高はそんな家来の一人でした。始皇帝は趙高のことを強く信頼していたのですが、始皇帝の死後、彼は大変な裏切りをおこないます。始皇帝の遺言を捻じ曲げるという畏れ多いことをおこなってしまいました。始皇帝が自分の後継ぎ、次の代の皇帝としたかった人物である嫡男の扶蘇(ふそ)さんに偽の遺言を届けて扶蘇さんを自殺させてしまったそうです。そして自分に都合のいい人物であった始皇帝の末っ子、胡亥(こがい)を次の皇帝に据えてしまいます。胡亥即位に成功した趙高は更に出世し宰相(さいしょう)に就任。皇帝の政治を補佐することとなります。出世し大きな権限を得た趙高は自分にとって都合の悪い人材、重要な人物をどんどん処刑していく乱暴な政治をおこなってしまいました。本来の次期皇帝まで死なせてしまう人間なのですから皇族や重要な役人の命を奪うことも確かにやりかねません。また自分が処罰されないよう政策判断の失敗の責任を他の役人に擦り付けていきます。国のためを思って諫めようという家来も処刑してしまうのですから間違った方向に国が進んでも修正が効かず、二代目の皇帝がよい政治をおこなえなかったことも災いして秦の体制内部がどんどん腐っていってしまいました。反乱も鎮圧できず皇帝から責任を問われることを避けるために今度は胡亥さんをも死に追いやってしまいました。次の皇帝となった子嬰(しえい)さんは趙高の本性をよく心得ていた人物で、側近とともに趙高を亡きものとします。しかし子嬰さんが皇帝になった時の秦には反乱勢力を撃退するような力も有能な人材も残っておらず、降伏するより他ありませんでした。こうして秦は亡びてしまうこととなります。

今回は秦王朝が滅亡した理由について一部取り上げました。以前に統一成功後の秦の政治について触れた記事を作ったこともあり、今度は画期的な政治も行った秦がどうして亡んでしまったのか確認したく今回のようなテーマの記事にしてみた次第です。理由として国民の不満と重職についていた人物の暴走について触れてみましたが大変昔の出来事ではあるものの国を傾かせる理由としては古いようで今の世の中でも当てはまるところがある話なのかもしれません。場合によっては今回のような趙高の立場ではなく国のトップが暴走ということも大いにあり得るような気がします。少し日本の近隣の国を見渡してみれば非常に過酷な政治をおこなっている国はそれほど苦も無く見つかります。重要な役職についている人物であっても処刑してしまうようなそういった国のニュースが時々日本の報道機関でも取り上げられますよね。そういった国でも秦のように15年で亡びていないということは、政治がまだ秦よりはましということなのかどうかわかりませんが。国民の不満の度合いによってはいずれ爆発して体制をひっくり返す原動力になるのかもしれません。秦の話に戻りますが、工事現場に期日までに到着しなかった者は処刑というのでは労働力の確保に体制側が余計苦労してしまうのではないかと思うのですが、そうした規則がまかり通るというのですから本当に極端な政治です。統一に成功した国の政治がこれでは一般の方々の落胆も大変なものだったことでしょう。


参考文献・参考資料

【春秋戦国時代】秦が15年で滅んだ6つの理由を分かりやすく解説! - はじめての三国志 (hajimete-sangokushi.com)

大国である秦が滅亡した理由は何だったのでしょう | 茶山(さやま)の関心事セット (iineiineiine.net)

秦 - Wikipedia

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