見出し画像

政治講座ⅴ1897「旧ソ連の崩壊に似てきた、嵐の前の静けさの中国共産党」

 軍事クーデターによるゴルバチョフ拉致で旧ソ連の崩壊を決定づけた。その前にソ連経済が崩壊しており、改革を指導したゴルバチョフへの不満が充満していたのである。
翻って現在の中国の経済が不動産バブル崩壊を契機に地方政府の過剰債務が問題化しており、公務員への給料も遅滞と減給しなければならない程、財政が疲弊しているといわれている。「需要と供給を無視した事業計画」・「採算度外視の事業計画」・「補助金漬けによる過当競争の助長」その他諸々が原因であるが、これが社会主義・共産主義の欠陥であろう。経済効率・損得勘定無視・懐具合は他人の責任(無責任体制)これが共産主義の会計簿記の姿である。破綻することは最初から分かることである。財政破綻した旧ソ連の政治崩壊を今の中国共産党の姿と瓜二つである。共産主義の運命は両者は同じである。嵐の前の静けさ!これが中国共産党の崩壊前夜である。
今回はそのような報道記事を紹介する。

     皇紀2684年8月18日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

中国・解放軍の幹部人事に不穏な動き…習近平の大粛清か、クーデター勃発か、台湾との戦争準備か、憶測飛び交う

福島 香織 によるストーリー

中国・人民解放軍の訓練の様子=2024年6月(写真:VCG/アフロ)
  • 中国・人民解放軍の五大戦区のうち三戦区でトップ(司令)が交代していたことが明らかになった。

  • 明らかに異常事態で、習近平国家主席による粛清か、クーデター勃発か、もしくは台湾との戦争準備かといった憶測が飛び交っている。

  • そもそも、こうしたデマや憶測が飛び交う背景には、習近平政権に対する高まる不満がある。やがてそれは言霊として現実のものになるのだろうか。

(福島 香織:ジャーナリスト)

 三中全会で解放軍人事が注目されていたが、7月31日になって五大戦区のうち三戦区の司令が交代していたことが分かった。しかもその司令交代の理由があまりよくわかっていない。このことから、いろいろな憶測が広がっている。

 昨年8月以降、解放軍の高級将校が相次いで失脚したり、失踪したり、自殺したりしていることはすでにこのコラム欄でも紹介している。その中には核ミサイルを主管するロケット軍司令の周亜寧、李玉超や元国防相の魏鳳和、李尚福も含まれていた。三中全会直前になって魏鳳和や李尚福は軍籍だけでなく党籍も剥奪されたことが発表された。

 こうした状況から解放軍内がかなり不安定化していると想像されていた。ちなみに魏鳳和も李尚福も、解放軍制服組トップで中央軍事委員会副主席の張又侠上将の推薦で出世してきた人物だ。

 そして張又侠は習近平の幼馴染、父親同士も仲が良かった親子二代にわたる深い絆で結ばれている、と言われてきた。それで三中全会では、魏鳳和や李尚福の失脚が張又侠の進退に影響するのか、解放軍人事に注目されていた。

 そして三中全会後に分かったことは、突然南部戦区司令、北部戦区、中部戦区の司令が異動になっていたことだった。7月31日午後、中国広東省党委員会書記の黄坤明は解放軍南部戦区基地での建軍記念日(八一建軍節)座談会に参加したのだが、この時すでに南部戦区司令は王秀斌上将ではなくなっており、元中部戦区司令の呉亜男上将が司令に着任していた。

 この時まで、この人事異動は報道されておらず、またこの司令交代の理由も不明なままだ。

五大戦区のうち三戦区でトップ交代の異常事態

 呉亜男はもともと北部戦区副司令兼陸軍司令だったのが2020年に中央軍事委員会聯合参謀部副参謀長に出世し、2022年1月に上将に昇進。解放軍中部戦区司令となっていた。この時第20期中央委員にも昇進している。

 ただ中部戦区司令の職務はわずか1年だけで、すぐに中央軍事委員会の機構に出戻っていたところ、突然南部戦区司令の人事が判明した格好になった。そしてもともとの南部戦区司令だった王秀斌がどこに異動になったのかはまったく情報がない。王秀斌も呉亜男と同じく、第20期中央委員。年齢は60歳、呉亜男より2歳若く、この人事異動は王秀斌の退職年齢などではない。王秀斌は習近平の腹心の1人として知られている。

 もう1つの注目人事は元中部戦区司令で第20期中央委員の黄銘が北部戦区司令に着任したことだ。そして一部報道では元北部戦区司令で、第20期中央委員の王強が中部戦区司令に着任する、と思われていたのだが、そうとは発表されていない。

習近平国家主席の思惑は…(写真:新華社/アフロ)© JBpress 提供

 つまり王強の消息も不明なのだ。五大戦区の司令の2人の消息が不明で、なおかつ同時に三大戦区の司令が異動することは、かなり異常事態だ。人事異動のあった北部、中部、南部はそれぞれ、ロシア・北朝鮮・日本方面防衛、首都防衛、南シナ海シーレーン防衛の任務を負う。

 それでカナダ在住の華人ユーチューバーの文昭などは、まるで1973年の毛沢東時代の八大軍区司令の大異動人事を思いさせる、と指摘していた。文革後期の1971年、林彪によるクーデター未遂・林彪事件の後の1973年、毛沢東は、再び地方軍閥の割拠が起きないように、十一の大軍区制度を八大軍区に整理し、司令の総入れ替えを行ったのだ。

 毛沢東は軍に対して警戒していたため、人事異動をやりまくり、軍をあえて弱体化させたのだった。

習近平は解放軍の造反を恐れていた?

 実は、三中全会後、一部海外チャイナウォッチャー界隈で張又侠による軍事クーデターが起き、習近平が実権を失った、という「噂」が一時広がったことがあった。三中全会で習近平が脳卒中で倒れたという「噂」はまもなくデマとして打ち消されたが、その後、習近平に関する人民日報の宣伝報道が極端に減り、そのことから習近平の権威が危機に直面している、あるいは政変が起きて習近平の権力はすでに失われている、といった言説があちこちで飛び交った。

 いわく、張又侠と王小洪が協力して習近平に権力移譲を迫った、とか。張又侠によるクーデターで習近平は権力を失い、張又侠が軍事委員会主席を継ぎ、丁薛祥が総書記と国家主席を継ぐことになった、とか。


7月に開催された三中全会(写真:新華社/アフロ)

 ほとんどの大手メディア、プロジャーナリストたちは、もちろんこうした「政変の噂」はデマとして取り合っていない。だが、解放軍の異様な人事異動などをみるに、習近平が軍人による造反を非常に恐れている、という想像は比較的一致した見方だった。

 司令の人事を頻繁にすることで、軍内の人間関係を希薄にでき、団結して習近平に歯向かおうとする可能性をそれだけ減らせる、というわけだ。なので、現在、「失踪状態」の王秀斌と王強は、粛清されたか、あるいはなにがしかの「不忠誠」を疑われて取り調べを受けている可能性はある。

 ただ、こうした可能性のほか、もう1つ、少し怖い可能性に言及しておく必要がある。

 王秀斌は上記で名前が出た司令の中で一番の若手で、習近平のお気に入り。王強は元戦闘機乗りで、空軍出身の司令としては習近平政権になってから2人目の出世株だ。

 彼らが習近平から嫌われて失脚するとしたら、本当にもう軍と習近平の関係が修復不能まで悪化したということではないか。だが、そうではなく、お気に入りの上将に何か隠密の特別任務が与えられたのではないか、という考え方もあるのだ。つまり台湾海峡や南シナ海有事に向けた作戦担当者としての特別任務に従事しているのではないか、ということだ。

対外軍事行動をにおわせ不満の矛先を国外に?

 三中全会の決定をみると、そこには多くの官僚たちが期待していた具体的経済政策はまったくなく、政治的スローガンとしての「中国式現代化」が繰り返されているだけという内容の浅いものだった。そこで党内の経済重視派たちは習近平に対して不満をくすぶらせている。

 多くの官僚たちは習近平に面と向かって歯向かうほどの勇気も実力も持ち合わせていないが、習近平が彼らから受ける無言の圧力は相当大きいはずだ。

 こうした圧力をうけた習近平がとった行動として、2つの方向性が想像されている。

 1つは、急に習近平個人独裁色を薄めて集団指導体制への回帰を推し進めようとしているという見方だ。三中全会の決定で習近平の固有名詞が妙に少ないということが注目されていたが、それは経済低迷など今の中国が直面する諸問題の責任は習近平個人が負うものではなく、党中央としての責任である、ということを言いたいがためだ、という。

 その考えの延長で、三中全会以降の官製メディア報道に習近平のプロパガンダ報道が極端に減った、というわけだ。

 もう1つが、対外軍事行動をにおわせることで、党員、官僚、人民の意識を国内の不満から対外問題に誘導するということだ。

 今年は実務的台湾独立派と自称する頼清徳政権が始まり、台湾の国家性を主張したその就任演説に対して習近平としては「懲罰」を掲げて台湾に対する軍事圧力をかけていく方針を隠していない。さらに言えば今年秋の米国大統領選ではトランプが勝利する可能性もあり、それは中国外交にとって最大の不確定要素の1つとなる。

 ロシア・ウクライナ戦争の行方、ハマスの政治リーダー・ハニヤの暗殺によってイスラエルとイランの戦争の可能性はこれまでになく高まっている。習近平が声高に宣伝した「平和の使者」外交は事実上挫折しているので、平和主義路線は説得力を失っているのだ。

 バングラデシュで起きた学生運動によって長期独裁政権のハシナ政権があっけなく転覆したのは、軍部がハシナ政権ではなく国民サイドに着いたためだ。これは解放軍の掌握に不安を感じている習近平からすればかなりショッキングな事件であったろう。

 解放軍と習近平が対立することを避けるためには、中国国内の安定は不可欠だ。経済成長への期待値で人民をなだめる方法がすでにとれない中国で、国内の安定を維持する方法の1つは、国内にくすぶる不満を国外に向け、解放軍に対しては、国家安全を守るために外敵と戦うという本来の任務を負わせることだろう。

習近平にまつわるデマが多発する背景

 三中全会で経済低迷から脱却する処方箋が示せず、この数年続く大洪水被害など天災に対し適切な予防や救済策が行われずに被害を拡大させたことについて、誰が責任を負うのか。この問題は、この三中全会の開催が半年以上も遅れた1つの背景だったと言われている。

 今の地方官僚たちは、責任を取らされるのを恐れて、習近平の指示がないことには一切動かない「躺平主義」を取りがちだ。これに習近平がガチギレして、昨年の北戴河会議では「それなら俺も何もしない」とふてくされたこともあった、とか。

 今年の北戴河会議は8月3日からスタートしているが、自分に責任を押し付けようとする官僚たちに腹をたてて、習近平が完全休養を決め込んでいるから、公式報道に習近平の露出が減っている、という説もある。習近平は自分個人の責任を回避するために、習近平個人独裁から集団指導体制へ回帰しようという動きがある、という説もある。

 いずれにしろ、習近平が脳卒中で倒れた、失脚した、クーデターが起きたというデマがこれほど断続に続くのは、この10年余りの共産党政治が何もかもうまくいっていない、ということがある。そして多くの党員、官僚、専門家、人民たち、そして国際社会もが、いっそ習近平に何ごとか起きて、中国のこの10年の変化を一気にリセットできたらいいのに、と思っているからこそ、デマだとわかっていても、クーデター説や卒中説の話題をみな口にするのではないだろうか。

 日本的な考えでは、言葉には言霊というものがあり、噂を語っているうちに現実になると思う人たちがいる。今回の解放軍人事については、戦争準備などではなくて、習近平の自滅的な大粛清であってほしいものである。

福島 香織(ふくしま・かおり):ジャーナリスト

大阪大学文学部卒業後産経新聞に入社。上海・復旦大学で語学留学を経て2001年に香港、2002~08年に北京で産経新聞特派員として取材活動に従事。2009年に産経新聞を退社後フリーに。おもに中国の政治経済社会をテーマに取材。主な著書に『なぜ中国は台湾を併合できないのか』(PHP研究所、2023)、『習近平「独裁新時代」崩壊のカウントダウン』(かや書房、2023)など。

■その他の著者の記事

中国・習近平がバングラデシュ政権転覆に焦る理由…親米政権なら「一帯一路」に暗雲、反政府学生運動の再燃を懸念(2024.8.10)

パリ五輪で再燃、台湾をどう扱うか問題…開会式の過激演出より「チャイニーズ・タイペイ」の呼称に注目すべき理由(2024.8.2)

中国で「絶望」広がる…「生かさず殺さず」の地方や外資、習近平は完全に開き直った?三中全会決議文の驚愕の中身(2024.7.26)

三中全会閉幕、コミュニケ中身より気になる異例の周辺事態。習近平礼讃原稿を新華社が取り下げ、病気説も?(2024.7.20)

中国が仕掛ける「法律戦争」、日本人はいつ逮捕されてもおかしくない!超法規的「法治国家」の世界標準化という謀略(2024.7.13)

中国・解放軍大粛清が第2幕へ、元国防相2人の党籍剥奪、次の標的は制服組トップか?(2024.7.5)

中国での日本人母子刺傷事件は本当に「偶発」か?弱腰日本は格好のターゲット、反日高揚の危険な周期に(2024.6.28)

中国で相次ぐ巨額追徴課税で企業家パニック、日本企業も駐在員も危ない!30年前の過少申告も摘発、その狙いとは…(2024.6.21)

米国人講師4人はなぜ中国で刺されたか?吉林省の公園で白昼に襲撃、当局は偶発事件として処理するが背景を探ると…(2024.6.15)


ソ連の崩壊『ソ連8月クーデター』

新連邦条約の締結を翌日に控えた1991年8月19日に、ソビエト連邦のモスクワで発生したクーデターである。

新連邦条約の締結でソビエト連邦を構成する15の共和国の権限を拡大しようとした改革派のミハイル・ゴルバチョフ大統領に対し、条約に反対するゲンナジー・ヤナーエフ副大統領ら保守派グループがクーデターを起こすが、ロシア共和国のボリス・エリツィン大統領を中心とした市民等の抵抗により失敗に終わり、ソ連の崩壊を招いた。

現在のロシア連邦成立に至った為、1917年にロシア帝国で起きた2月革命(1917年3月12日)や10月革命(1917年11月7日)になぞらえて、ロシア8月革命と呼ぶこともある。別名「8・19クーデター」「8月19日の政変」

ゴルバチョフの3代前の書記長レオニード・ブレジネフの政策は1970年代後半以降徐々に破綻をきたし、中ソ関係や米ソ関係のさらなる悪化を招いた。特に米ソ関係は1979年のアフガニスタンへの軍事介入で決定的に悪化し、デタントは消え去った。

こうした状況の中で1982年にブレジネフが死去した。その後任となったユーリ・アンドロポフは病弱であったため、1年3ヶ月後の1984年に死去。さらにアンドロポフの後を継いだコンスタンティン・チェルネンコも病弱であり、書記長就任の翌1985年に死去した。チェルネンコの後任の書記長には54歳だったゴルバチョフが就任し、ペレストロイカ(再構築)やグラスノスチ(情報公開)といった国内改革を進めることとなる。

就任直後の1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故への対応を巡っては、ソ連指導層に混乱が生じた。事故を隠蔽すべきと考えていた保守派は、現場の自己保身に同調する形で、グラスノスチで情報公開を推し進める改革派のゴルバチョフに対して事故を過少報告した。ところが、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)由来の放射性核種が発見されたニュースがゴルバチョフに知られるに至り、隠し通せなくなった。だが必ずしもソ連の栄誉すべてをかなぐり捨てるつもりではなかったゴルバチョフは、調査に当たったヴァレリー・レガソフらと協議の末、「事故の事実は認めるが、RBMKの設計上の問題は認めない」という保守派にも改革派にも不満の残る対応をとった。レガソフは2年後にこれらの事実を踏まえた告発文を発表、また回顧録を肉声テープで残したうえ、自殺している。

こうした中、ソ連共産党内の改革派からエリツィンたちが台頭してくる。エリツィンはゴルバチョフが保守派と妥協していることを批判したため、1987年にモスクワ市党委第一書記を解任され、さらに1988年2月には政治局員候補から外される。保守派と改革派の対立の土台は1988年のゴルバチョフによる過去の政治批判によりできあがっていた。1988年10月にはアンドレイ・グロムイコ最高会議幹部会議長が辞任し、ゴルバチョフが兼任する。

翌1989年には改革派からはみ出した民主綱領派が結成され、エリツィンがリーダーとなった。これに刺激されるかのように1990年2月に保守派が政策集団「ソユーズ」を結成する。7月の党大会でゴルバチョフが書記長に再選されるが、エリツィンがゴルバチョフの書記長続投に反発し離党。1991年1月13日、ソ連軍のリトアニアへの軍事介入により14人の死者が出た[7][8]。さらに同月20日にはソ連内務省特殊部隊(OMON)がラトヴィア内務省を襲撃し、5人の民間人を殺害した[7]。ソ連軍のバルト三国への軍事介入に反発するソ連の市民がゴルバチョフの退陣を要求するようになり、軍部に頼るようになったことで国民の支持という点での政権基盤が崩れつつあった。また、経済政策も行き詰まりつつあった。

経済政策の行き詰まりの原因はアメリカにあった。アメリカのロナルド・レーガン大統領による、ソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗するムジャーヒディーンの支援とスターウォーズ計画でソ連の軍事費はかさむ一方で、民需による技術開発はなされなかった。宇宙開発競争でアメリカをリードしたニキータ・フルシチョフ時代には「科学先進国」ともされていたソ連だったが、戦勝と資源投入によって得た技術的優位はこの頃にはすっかり失われ、日本やアメリカと比べると10年から20年は遅れている無残な状況となっていた。アメリカに融和的なゴルバチョフは軍民転換(コンヴェルシア)を掲げて従来の計画経済を改革しようとするも、マルタ会談での冷戦終結に伴う大規模な軍縮はアメリカと軍拡競争を行ってきた軍産複合体の既得権益を脅かすこととなり、クーデター側に軍需産業の代表が名を連ねる原因となった。

ゴルバチョフはエリツィンと4月に和睦し、ソ連邦の基本条約に調印した。しかし、ゴルバチョフ政権を支えていた軍部と保守派は、この動きに抵抗した。この頃、ソ連の国民世論はエリツィンら急進改革派支持に傾いていった。1990年4月にはエリツィンら急進改革派が結成した地域間代議員グループに所属するガブリール・ポポフがモスクワ市長に、1991年6月にはアナトリー・サプチャークがレニングラード市長に当選した(ポポフ、サプチャークは後にブレジネフの流れを汲む保守派と一線を画し、後に共産党を離党する)。また同年6月20日のロシア大統領選挙では、保守派が擁立したニコライ・ルイシコフ前ソ連首相がエリツィンに惨敗したことも保守派を追い詰め、クーデターを引き起こすきっかけとなった。

1991年8月20日に各主権共和国は独立した共和国として共通の大統領、外交、軍事政策下に連合するという新連邦条約に署名する予定だった。保守派は新連邦条約がいくつかの小さな共和国、特にエストニア、ラトビア、リトアニアといった国々の完全独立に向けた動きを促進するだろうという恐れから同条約に反対した。彼らは、新連邦条約は各主権共和国へ権力を過度に分散させすぎたものだと見なした。
クーデターは失敗したが、結果としてソ連共産党は国民からの信頼を失い、のちのソ連崩壊へと繋がっていく。

クーデター前夜

1991年8月19日、ゴルバチョフ大統領と各主権共和国指導者が新連邦条約に調印する前日、「国家非常事態委員会」を称するグループがモスクワでの権力奪取を試みた。ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領を始めとする保守派グループによる体制維持が目的の反改革クーデターはウラジーミル・クリュチコフKGB議長が計画し、ゴルバチョフの別荘の暗号名をとって「あけぼの作戦」とよばれた。委員会の8人のメンバーはヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB議長、ボリス・プーゴ内相、ドミトリー・ヤゾフ国防相、ヴァレンチン・パヴロフ首相、オレグ・バクラーノフ国防会議第一副議長、ワシリー・スタロドゥプツェフソ連農民同盟リーダー、アレクサンドル・チジャコフ国営企業・産業施設連合会会長であった。また、同委員会の正式なメンバーでは無かったが、アナトリー・ルキヤノフソ連最高会議議長は同委員会と密接な関係にあり、謀議に関与していた。

8月19日

前日の8月18日の午後5時頃ワレリー・ボルジン大統領府長官ら代表団がクリミア半島フォロス(ウクライナ語版、英語版)の別荘で休暇中のゴルバチョフに面会を要求、ヤナーエフ副大統領への全権委譲と非常事態宣言の受入れ、大統領辞任を迫ったがゴルバチョフはいずれも拒否、別荘に軟禁された。

国家非常事態委員会は8月19日の午前6時半にタス通信を通じて「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となりヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」という声明を発表する。反改革派が全権を掌握、モスクワ中心部に当時ソ連の最新鋭戦車であったT-80UDの戦車部隊が出動し、モスクワ放送は占拠された。(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという)。ソ連のテレビ局は国家非常事態委員会の検閲により放送内容を制限され、国家の最高指導者の死亡時に[注釈 1]放映される「白鳥の湖」が流され続け、ニュースを見ることが出来なかった。

午前11時になるとロシア共和国のエリツィン大統領が記者会見を行い「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表する。エリツィンはゴルバチョフ大統領が国民の前に姿を見せること、臨時人民代議員大会の招集などを要求、自ら戦車の上で旗を振りゼネラル・ストライキを呼掛け戦車兵を説得、市民はロシア共和国最高会議ビル(別名:ホワイトハウス)周辺にバリケードを構築した。また市民は銃を持ち火炎瓶を装備、クーデター派ソ連軍に対し臨戦態勢を整えた。クーデターには陸軍最精鋭部隊と空軍は参加しなかった。

中国共産党「北戴河会議」で”政治的暗闘”勃発か…李強首相が国務院全体会議でまさかの「習近平思想」排除の衝撃

石 平(評論家) によるストーリー

ありえない!「習近平」が主語から抜け落ちる

8月16日、中国の李強首相は国務院全体会議を主宰した。そしてこの会議において、今までに様々な場面で「習近平離れ」の動きを見せてきた李首相は、それこそ旗幟鮮明に「習近平排斥」の姿勢を示したのである。

習近平と李強(右) by Gettyimages© 現代ビジネス

この国務院全体会議は、李強が首相に就任してから5回目の主催である。17日の人民日報の公式発表によると、会議には中央政府各部門の責任者が列席した以外に、各省・自治区の責任者もオンライン方式に参加したという。今まで5回の国務院全体会議のうち、各省・自治区の責任者が参加したのは今回が初めてのことだ。この会議が全国規模の大変重要なものであることを示唆している。

まず、人民日報掲載の会議発表は冒頭からこう述べる。「会議は党の三中総会の精神と中央政治局会議・政治局常務委員会議の精神を深く学び、党中央の精神を持って思想の統一・意思の統一・行動の統一を図るべきことを強調する」と。

ここで大いに注目すべきなのは、国務院会議としては、学ぶべきところの「精神」は党の一連の会議の精神であって、思想・意思・行動の「統一」の軸となる精神は「党中央の精神」であること。つまり、肝心の「習近平」と「習近平思想」が完全に抜けて「党」「党中央」が主語となっている。

現在の中国政治を熟知している人ならば、このような表現を目にしただけでビックリ仰天するのであろう。習近平ワンマン独裁政権下では普通、党と政府の「思想統一・意思統一・行動統一」の軸とされるのはまさに「習近平思想」であある。そして「党中央」のこととなると、「習近平総書記を核心とする党中央」は絶対不可欠な標準的な表現であって、習氏自身の発言以外に、「党中央」から冠としての「習近平総書記」を外すのはありえない話である。

しかし、李首相主宰の国務院会議はまさにこのような「あり得ない」ことをやってしまった。国務院の学ぶべき「精神」と「思想・意思・行動統一」の軸から「習近平」「習近平思想」を堂々と外して、あまりにも露骨な「習近平排斥」を行ったのである。

習近平ではなく「党中央の方策」に従う

その一方、発表されたところでは、李首相が会議での発言で一度だけ、習近平のことに触れたことがある。「改革の全面的深化に関する習近平総書記の一連の新思想・新観点・新論断を深く学習し理解し、改革の全面深化に関する党中央の方策を断固として実施していく」と。

「習近平」に関する李首相のこの発言は実に興味深いものである。彼は一応、習近平の「新思想・新観点・新論断」を「深く学習・理解すべき」と語っているが、しかしその直後に「党中央の方策の実施」を述べたのがミソである。

つまり彼はここで、習近平の「新思想・新観点・新論断」に関してはそれを「深く学習・理解すべき」と言ったものの、それの「貫徹」や「実施」については何も言わない。国務院として実施していくのは「党中央の方策」なのである。

要するに彼はここで、「習近平の思想・観点たるものは一度学んで理解したらそれで終わり。実際にやることは別である」と言わんばかり。そして自分が従うのは「党中央の方策」であって「習近平の思想」ではないことを公言しているのである。

「習近平からの離反」の決定的な一歩

今回の李首相発言がどれほど「異常」なものなのか、彼自身がそれまでに主宰した国務院全体会議の「習近平」に関する表現と比べてみればよく分かる。

例えば2023年3月、李氏が首相になった第1回会議は習近平のことについてこう述べる。「新しい政府は習近平思想を指針とし、習近平総書記の重要講話を深く学び理解し、それを真剣に貫徹させ実施に移さなければならない」。

あるいは今年3月開催の李首相主宰4回目全体会議は、「習近平総書記の重要講話は、非常に強い思想性・指導性を持ち、われわれはそれを深く学び貫徹させなければならない」と。

つまり以前の国務院会議は、習近平の講話などに関し、国務院のそれに対する「実施」「貫徹」が強調されているが、今回の場合、「実施」も「貫徹」も抜けて事実上「棚上げ」されたのである。

以上は、人民日報発表の李首相主宰国務院会議の注文内容であるが、習近平の子分であるはずの李氏はこれで、「習近平からの離反」の決定的な一歩を踏み出したと言って良い。彼は今後、国務院総理として、党中央の一員として「党中央の精神と方策」に従って仕事していくとの姿勢を明確に示し、もはや習近平一個人の言いなりにならないと宣言したのである。

「北戴河会議」で暗闘?

どうしてここに来て、李首相はそれほどの思い切った習近平離反をやってしまったのか。一つの推測としてはおそらく、この二週間に開かれたかもしれない恒例の「北戴河会議」に関係している可能性がある。

「北戴河会議」とは毎年の盛夏の8月に、党中央の指導?者と引退した長老たちが避暑地の北戴河にある党中央専用の「別荘団地」に集まって断続的に開く非公式会議のことだ。

今年の場合、政治局常務委員の蔡奇が8月3日に北戴河で科学者たちを慰問し、また、習近平・李強を含めた中央指導者たちが8月に入ってから姿を消していたことからすれば、いわゆる「北戴河会議」がこの二週間に実際に開かれた可能性は大。

そこで様々な政治的暗闘が行われたことの結果、習近平の力が後退して李首相がある程度の主導権を取り戻したのではないかと推測できるが、実際には何か起きたのかについては、今後の観察が必要である。

参考文献・参考資料

中国・解放軍の幹部人事に不穏な動き…習近平の大粛清か、クーデター勃発か、台湾との戦争準備か、憶測飛び交う (msn.com)

ソ連8月クーデター - Wikipedia

ミハイル・ゴルバチョフ - Wikipedia

中国共産党「北戴河会議」で”政治的暗闘”勃発か…李強首相が国務院全体会議でまさかの「習近平思想」排除の衝撃 (msn.com)

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?