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ごみと資本主義 #D2021

それでは、今回からD2021の対話の内容に触れていきたい。前回で提示したように、自分が何を学びたいのか、また、何のために学びたいのかを意識して、この対話に耳を傾けていた。しかし、このnoteを書きながら、自分が学びたいものが変わってきたため、目的のステートメントを少し変えてみたい。

資本主義の形が変わろうとしているのは疑いようがない
では、どのように資本主義を変えることが、現実的なのかについて学びたい

概要

第1回はゴミについて考えるというテーマ。ゴミは、身近なものでありながら、ゴミとなった瞬間から厄介者となり、ゴミを捨てた瞬間から無関心となる。

そんなゴミに対してスポットライトを当てて、なぜこんなにも大量のゴミを出す社会になっているのか、ゴミが社会に与える影響とは何なのか、資本主義の中でゴミとどう付き合うべきか等、以下の6名の方によって、さまざまな切り口から興味深い議論が繰り広げられていた。

・後藤正文(ミュージシャン/ASIAN KUNG-FU GENERATION)
・斎藤幸平(経済思想家)
・藤原辰史(歴史研究者)
・田代伶奈(哲学の人/D事務局)
・篠田ミル(ミュージシャン/D事務局/yahyel)
・永井玲衣(哲学研究者/D事務局)ーー司会

なぜいま、ゴミなのか?

今までゴミを考えなさ過ぎたのかもしれない。もちろん、リサイクルの話は私が物心ついた頃(30年以上前)から語られてはいたものの、捨てるところまでしか関心はなかったし、関心事というよりは避けたい面倒事という意識しかなかった。長い間、そんな無関心のまま過ごしてきた。その間に、地球はゴミで埋め立てられ続け、廃棄物で汚染され続けている。

豊かな生活を求める資本主義の社会の中で、魅力的な新商品を買い続けるために地球の資源が搾取されていたことすら気付いていなかったが、それだけでなく、無関心にも捨てられたゴミは地球を埋め尽くしてきている現状がある。

自然に分解されないマイクロプラスチックが問題となり、光合成で分解しきれなくなったCO2によって異常気象が引き起こされ、私たちの社会にも影響が見え始め、脅威を覚えるほどに高まってきた。

そういった流れが、今、私たちにゴミについて考えなければいけない意識を高めているのだなと思った。

分解の哲学

今回の対話では、分解の哲学という本の紹介から始まった。これはゲストの歴史研究者、藤原さんの著書。今回の対話を通して、分解という言葉が大きなキーワードになっていく。

この本の内容は読んでいないので分からないが、生産とごみ廃棄の中に、分解というプロセスを社会に追加する必要があるのではないかという気付きを、この対話の中から得た。

多くの場合、生産されたものは捨てられる。修理すれば長く使えるものでも、修理コストが高いので、廃棄して新しい商品を買った方が安く済む。それに関して、斎藤幸平さんが「計画的陳腐化」という言葉が使っていた。これは、意図的に商品を陳腐化させなければ新しい商品が売れないので、計画的に陳腐化するように生産側が仕組んでいるという話だと思う。かつて、1年経ったら壊れてしまう製品として、◯◯タイマーなどと揶揄されていた電機メーカーで商品設計をしていた私としては、そのような陳腐化の施策を組み込むようなことは一切経験したことはないと断言する。ただ、修理コストが高くつくために、新しい商品を買うことを勧められるような体制になっていることは否定できない。逆に言えば、修理前提での設計構想、サービス構想会議をもとに、商品開発を進めることが、これから求められる商品開発の姿なのかもしれないと思った。

藤原さんからは、これからの未来に向けて、国立修理大学のような修理することを教える大学があったら良いのではないかと提言されていたり、辞書に新しい言葉が追加されるような世の中が望まれているような話をされていた。例えば、作曲ではなく解曲というような、「作ること」から「分解すること」が大きなテーマとなるような社会への変革を推進することだと思う。

経済合理性と人間の欲望

資本主義は経済合理性のもとに成り立っている。そう言われてきた。豊かな社会を作るために、生産性を高めるために、市場での自由競争によって発展していく資本主義社会。しかし、いま、本当に合理的だったのかと疑問が投げかけられている。

生産するためにはお金がかかり、修理もできずにゴミが増えていく。また、生態系の循環の中で、生産スピードの方が速ければ、循環サイクルは壊され、搾取され続け、廃棄物で満たされた地球には終わりしか見えてこない。これはもはや非合理的なシステムだったと言わざるを得ない。

そんな非合理的な資本主義に対して、経済合理性があると信仰させ続けてきたその根底には、人間の欲望があった。ポスト資本主義を語る上で、資本主義の次の社会を築く上で、この人間の欲望というものが最大の敵になることは間違いなさそうだと思った。

資本の奴隷

私たちは自分好みのファッションを求めて新しいデザインの洋服を買う。機能としては変わらないような商品に、毎年、新しいものを求めてしまう。そのために、発展途上国では過酷な労働環境で生産されているだけでなく、それによって大量のゴミが出ている。また、魅力的な商品であるように見せるために、デザイナーやアーティストたちが、商品そのものではなく、広告業界でしのぎを削っている。魅力的な商品であるように見せるために、マーケティングやブランディング業界が大きな産業となっている。

そのような社会を無駄だと言い放っているのが斎藤幸平さんなわけですが、これに対して、「自分が好きな洋服を選びたい」という欲求を叶えられるような権利を私たちは得たのであって、資本主義社会の元で、そのような自由をつかんだのではないかという自負がある。そのような選択の自由こそ、人間が人間らしく生きるために必要なことではないかという意見もある。

それに対して斎藤さんは、

それこそが資本の奴隷の状態である

と言い放つ。

確かに、好きな洋服や好きな生活を選べるようになったのは喜ばしい。かつては王権や封建制のもとに、自由な生活は控えざるを得ず、縛られた生活を強いられていたが、民主主義国家として成長し、その象徴として、資本主義が私たちの生活を豊かにして、選択の自由を私たちは手にした。

しかし、その選択の自由を得るために、誰に感謝されるか分からないような仕事に時間を費やし、働くことに喜びを感じる人の生活を見習うような圧力がかかった社会の中で、強引にやりがいを見つけて生きる人生。それは本当に自由なのか。

また、労働力が私たちの商品価値として見られる資本主義の中では、能力で劣り、生産性があげられないことで、私たちがごみとして見られるのではないかという恐怖心が、植え付けられているのではないかと思うと、本当に、資本主義で自由を手にしたことになっているのか。以前、コテンラジオの「資本主義」についてのエピソードを聞いた時に、うつ病が生まれたのは資本主義が生まれてからという研究もあるという話があった。高度な教育を受けるようになった市民が、労働者としての競争社会に立たされた時、鬱という症状が生まれてきたのかもしれない。

そのような労働者として束縛されている状態でもありながら、さらに、途上国の過酷な労働によって成り立っているファストファッションに身を纏うことが、本当に自由を手にしたと言えるのか。

ただ、まだ実感がない。本当に、私たちの生活は、途上国の過酷な労働環境の上に成り立っているのか。情報としては見ているが、社会を変えなければならないと、自分の中に結論づけるまでの情報として実感がない。どうすれば本当に実感できるだろうか。それができれば、社会は大きく動き出すように感じた。

想像力とアート

私たちには想像力が足りない。想像力も奴隷化されているのではないかという見方もある。かつての自給自足の世界を目指そうというユートピア論も失敗し続けている。未来を変えようとしたときに、今までの発想にない想像力が必要になる。そんな時に、頼りになるのが、哲学や芸術や音楽といったアートだという。私は、それらがいわゆるリベラルアーツなのだと理解した。

哲学者のマーサ・ヌスバウムは、非動物的であり続けたい欲望が、完璧な人間を目指す背景にあるという。私たちは動物ではない。人間として、人間らしい生活を送る。そのために、非動物的な人間の犠牲の上でも、私たちは人間らしい生活を送ろうとしてしまう。

それが人間と言ってしまうのか。もっと豊かな人間社会を目指すのか。

今、スマートな社会を目指そうという動きもあるが、スマートな社会で目指すのは完全なものではなく、不完全でいいから、転んだ人がいたら手を差し伸べ合える社会を目指すべきではないか。

想像力を働かせなければ、世の中はディストピアに向かっていくという危機感を持つ必要があるということも学んだ。

今の私はかく考える

今回の対話で、私が得た一番の大きな学びは、

資本主義を壊すのではなく、内部から資本主義を分解していく

という考え方。

どうやって資本主義をやめるのか。壊すのではなく、細かく分解して、排除すべき点を排除していき、アップデートすべき点はアップデートしていく。そうすることで、資本主義の悪い点を自分ごとに認識できて、変革が進められるのではないかと思った。

また、資本の奴隷からの脱却の話の中であったように、社会を変えようとした時に、自由とは何なのかを今一度自分の中で考える必要があると思った。

斎藤さんが考える自由は、それこそ資本の奴隷からの脱却なんだと思われる。つまり、常に新しいものを消費していないと自由を感じられない社会から脱却し、生活する上で必要なものだけに生産・労働を集中させ、不必要な仕事から脱却して自分が生きる上で必要な時間を大切に使う。

正論としては、確かにそれが望ましい。今の私も同意してしまう。ただ、私は理想を追い求める考えをしがちな一方で、現実的には、面倒なことを避けて、無駄な仕事でもお金がもらえて生活できて、少しばかりの快楽に浸って怠惰な生活を送ることを細胞レベルで求めてしまう。染み付いた生活から抜け出すことは容易なことではないように感じている。さらに、現実的には、このような議論すら知らない人たちの方がまだまだ大多数であることを考えると、本当に社会を変えていく、資本主義を変えていくということの難しさは半端ないものがあると感じる。

では、どのように社会を変えていくのがいいのか。

社会を俯瞰する社会学者は、彼らだけでは社会を変えられない。社会を変えるためには、メッセージを伝える媒体が必要で、それがニュースメディアでは浸透に威力を発揮しにくい。そこでミュージシャンの出番があるのではないかと思った。音楽の力を使い、社会の注目を集め、人々の関心を高め、音楽のちからで浸透力を高める。音楽の力は、こんなにも偉大なのかと思った。

私は、コテンラジオの影響で、哲学や歴史、社会学などの人文科学を学ぶことが今のリベラルアーツだと思っていたが、そこに音楽も重要な意味を持つことを認識した。人文科学だけでなく、音楽やアートなどにも触れながら、社会のあり方を対話を通して探っていきたいと思った。

おそらくは全員が納得できる画一化された同じ未来を実現することは不可能である。対話を通して、自分の理念をしっかり考えていくことが大事だなと思っている。そして、理念で通じ合った人たちが協力し合える社会に暮らしたいと思った。

今、住宅ローンの支払いが残っている現実はあるが、だからといって未来の社会を悲観しないように考え続けたいと思う。

これからも対話が必要だと思った。

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