「1万時間」は熱意の秤
学習に関する通説に「1万時間の法則」がある。元となった研究の一つを成したのがアンダース・エリクソン氏で、多くの物事では「適切な質と量の訓練があれば誰でも習熟できる」ということであるらしい。
もちろんある世界でトップを争うせめぎ合いとなれば素質も問われるだろうけど、一流になるくらいまでなら素質とか適正といった言葉で諦める必要はないという、とても希望を与えてくれる話だ。しかしこの研究を有名にしたマルコム・グラッドウェル氏の著書は、その一方でこれらの研究から「1万時間の法則」を提唱した。
1万時間の努力は簡単ではないけど、誰でもやろうと思うことはできる。どれだけやったか量ることもできる。そしてこの数字を振りかざして「努力しなさい」とか「努力が足りない」とかいうこともできる。希望ではなく道徳に満ちていて、聞いた人がうれしくなる成分より、言って聞かせる人にとって都合のよい成分が多くなっている感がある。
そしてエリクソン氏が訓練の質と量の両方を重視したのに対して、「1万時間とは偉大さを示すマジックナンバー」という数字の一人歩きには質の観点が観点が抜け落ちている。訓練を施す側の問題が隠れてしまい、訓練を受ける側の努力量だけの問題に見えてしまうのは、本当になんというか都合がよさそうだ。実際にはこの点で1万時間の法則にはすでに多くの反論が(エリクソン氏からのものも含めて)あるようだけど、それでもこの通説が好まれているのはなんていうか「道徳的に正しいおとぎ話」だからかもしれない。
ただこの「1万時間の法則」を、僕はちょっと違った意味でよく利用している。自分の熱意を測る秤としてだ。
例えば僕は本を読むのが好きだけど、いっぱしの読書家になれるつもりかと言われるとどうだろうと思う。そういう時に「一万時間の法則が正しいとしたら」と仮定して、シミュレーションしてみるのだ。例えば僕の読書量はだいぶ減ってきてて、いまは平均すれば週10時間ぐらいかもしれない。そうすると1万時間を重ねるにはこの調子で1,000週間、それが一つの目安だ。1年は50週間とちょっとだから、ざっくり20年。その頃にはもう老境に入り始めてて「いっぱしと認められたい」なんて思いは枯れてそうだ。
もちろん、いっぱしの読書家なんていい響きではある。もう少し若さのあるうちにそこにたどり着くよう、情熱を傾けてみてもいい。でも本当にそれだけの熱意を持てるのか。そう思ったら、これもシミュレーションできる。例えば10年後に一端の読書家になろうと思ったら、500週ちょいで10,000時間を積むのだから、週20時間。いま週10時間読んでる僕は、あと10時間を毎週読書のために絞りだせるか。そのために毎週なにを10時間分捨てるのか。喫茶店に行く時間?ゆっくりした夕食時間?動画とかテレビ時間?睡眠時間?本当に…捨てられるのか?
こうやって考えると、僕は読書家であるためにそこまでしたいだろうかと具体的に、そして浮かれた足を地面につけなおして考えやすくなる。いや、そこまでするほど熱はないよね、とか。逆にその気になることもある。スマホからエンタメ成分(動画とかゲームとかSNSとか)を削除して、夕食は21時までと決めて、寝る準備に入るまでの2時間半を毎日それに充てようと。そう考えただけでなく、もし本当にスマホのエンタメ成分を削除し夕食の時間を早められたなら、僕の熱意はどうやら本物らしいと一旦は信じてみてもいい。
「遊びでやってるやつが仕事でやってるやつに敵うわけはない」とか「仕事でやらされてるやつが好きでやり続けずにいられないやつに敵うわけがない」とか、どちらももっともな話だ。仕事でやってる人は一日8時間ぐらいはそれにつぎ込むのが当たり前だし、好きでやらずにいられない人なら16時間ぐらいつぎ込んでるだろう。遊びのレベルを脱したい、「彼らのようになりたい」と憧れるなら、余暇でまかなう自分なりのペースででもトータル時間で「彼らぐらいやれるか」と自分と相談してみることは有用だろう。
「自分なりのペースで彼らぐらいやる」を具体化してくれるのが、僕にとっては「1万時間」という熱意の秤なのだ。
「1万時間の法則」についてはそんな風に思っているのだけど、最後に台無しなことを書いておくと、最初にこの法則を知った時に僕が思ったのはこういうことだった。1万時間努力しても、良い努力に導いてくれる良い師に恵まれなければ習熟に至らないんだな、と。さもなければ、自分で良い努力を見出せる天才がないと。世の中はそこそこ残酷だ。でもある物事で一流になれなかったからと言って、死ぬわけでもなければその物事を楽しめないわけでもない。世の中はそこそこ寛容だ。
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