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FaceAppとだます脳、だまされない脳

SNSで時々、FaceAppが話題になる。その時その時、その場で自分にカメラを向けて試してみるけど、毎回たしかに別人ができあがって楽しい。今回はこんな風だ。

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順に「10代」「黒髪」「女性化2」の変換をかけている。出来上がりを見ると、これなら同一人物に見えないだろうと思わされる。そしてしばらく眺めていて、あれ、でもと思う。最初と最後の2枚だけを並べてみる。

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これ、鼻とか唇とか眉とか、主だった顔のパーツはちゃんと見比べるとそのままだな、と。顔の輪郭線もそのままかもしれない。肌色、髪色、唇の色の変化で、見事にこの顔を誰よりも見てきている自分自身が騙されている。サングラスで目元を隠すとかそんな変装よりも、もっと簡単なお化粧レベルで。

ダニエル・ギルバートの「明日の幸せを科学する」に、こんな一節がある。

お気に入りのテレビ番組を一シーズン分まるごとコンピューターのハードディスクに保存したことがあるなら、外界のものを忠実に写しとるのにどれだけ膨大な容量が必要か知っているだろう。ところが、脳は何百万もの写真を撮り、何百万もの音を録音し、におい、味、手触り、三次元立体情報、時系列、途切れのない実況解説まで記録している。しかも、脳は一日じゅう、毎日、何年も何年もそれをつづけて、世界の写しを記憶装置に保存している。

そんな膨大な記憶を可能にする仕組が「圧縮」だ。ただし元の体験を正確に再現できる「可逆圧縮」ではなく「不可逆圧縮」、それもかなり大胆な不可逆圧縮だ、と言う。

経験の緻密なタペストリーは記憶に保存されない──少なくともそっくりそのままのかたちでは保存されない。保存できるようにタペストリーを圧縮して、まずは、概要を表すことば(「ディナーはがっかりだった」)や少数の特徴(硬いステーキ、コルクくさいワイン、横柄なウェイター)といった数本の重要な糸だけにする。のちのち経験を思い出したくなったら、脳はタペストリーを織りなおすために、大量の情報をすばやくでっちあげ──よみがえらせるのではない──われわれはそれを記憶として経験する。

僕は自分の顔を、主に「白髪混じりの髪色」「荒れ気味の肌」とか、「モサモサした髪型」とかいった言葉に圧縮して記憶してたんだろう。この「圧縮情報」を元にその他の顔のパーツを大量に「すばやくでっちあげ」てみても、右の若い女性風の顔は構築できなかったから、これを別人と認識したんだろう(これって不可逆圧縮と伸長の話でもあるけど、あいまい検索の話でもありそうだ)。

実は(最初は機能しなかったけど)僕が自分の顔について意識している情報があと二つある。一つは鼻梁とその横に鼻腔といった漏斗型じゃなく、斜めの線がまっすぐ左右に降りていくぼってりした鼻。もう一つは左右対称ではなく、見開くと上まぶたが弧を描くどんぐり眼になる左目と、もう少し上まぶたが直線的で猫目気味になる右目。いつも右目を細めてる印象になる。この写真でも、それが出ている。それで別人の印象を持ったわりに、顔の真ん中部分は意外と一緒だぞと気付いた。

多分、FaceAppでだまされる脳とだまされない脳、だます(でっちあげる)脳とだまさない脳の差は、目、鼻、口の見た目を表すボキャブラリー(語彙)の豊富さなのかもしれない。各パーツについて、ボキャブラリーが乏しいと「目は二つ、鼻は一つだった」ぐらいの情報しか残らないけど、再現性のいいボキャブラリーを持ち合わせていればまるでその顔を映像記憶していたかのように記憶として思い出す経験ができる。同時に顔のある部分はそのままに再現しながら、他の部分はさまざまなバリエーションを大量に「すばやくでっちあげ」て顔のあいまい検索ができる。

僕はそのボキャブラリーが少ないから、人の顔を判断するのにその辺のパーツを使い慣れないし、それで自分の顔でも第一印象では騙された。そういえば、フレデリック・フォーサイスの作品に変装を見抜くスペシャリストが登場し、その秘訣は「耳の形を覚えていること」と明かしていたような覚えがある。人の顔を覚えるのが得意とか苦手とかいうのは、案外と記憶力や観察力ではなく、記憶の圧縮と再現に使われる顔周りのボキャブラリーの差なのかもしれない。


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