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ミーム化された"つかもとゆうた"の取り扱いへの所見--Twitterのメディア特性--

 ネットミームと化したつかもとゆうたと、それに対するわたしの向き合い方を整理するためには、まずTwitterというメディアの特性に触れなくてはいけないと思う。このメディアは本当に特異であって、対面コミュニケーションともその他メディアとも違う非常にインターネットらしい特性を備えている。それは双方向性を前提としていないこと。わたしはTwitterのこの特性がわたしの雑な生き方に凄い合っている。わたしは「雑談」が苦手である。基本的に非常に広く浅く非体型的な雑食好奇心人間なので、相手との共通部分を見つけることが難しいし、その上でこの点について努力する気はない。お互いが意のままに進む世界線の先に交わる者があればそれが運命である、という信念を持っており、これが実際にわたしの生きやすさの根幹を為している。Twitterにおいては自分をコンテンツ的に整理して、ダイソーよろしく「そこに無ければ無いですね」と、陳列しているものに興味持ってもらった者に自由にご利用頂く、場合によってはそこで始めて双方向性が生まれる。反対に、わたしも自分がこの人のコンテンツを(プライベート的に或いはコンテンツ的に)追いたいと思った者を自由にわたしの意思でフォローし、それが時偶両思いになって人間関係のネットワークが形成されていく。このような(インスタの投稿部分やyoutube、ネット全体のような)コンテンツベースのオープンなコミュニケーションが(一般SNSのような)プライベートなコミュニケーションに自然に転じうる珍しいメディアがTwitterである。中でもわたしは1000人以上居る本アカFFを全追いしようとまだ試み、家族を縮小に通して近況報告を省くほどに過激にこの特性を利用している、超情報時代人間である。双方向性のない情報交換で事前情報を大量に得て横綱相撲コミュニケーションを取ることでコミュニケーション能力の低さと興味の偏りを解決している。また、ネットコミュニケーションは並列性が成り立つのが強みであって、出力10%のコミュニケーションを大勢と並列して行うようなことが出来る。わたしの情報志向は、(一般的に忌避されることが多いが)ふと思いついたことをスピンアウトして別のコミュニケーション系統に流すことを本流と同時に行ったりして情報を繋ぎ止めることにかなり依存している。 

 さて、このようなTwitterの特性は「独り言」と「内輪ノリ」に向いている。通常のコミュニケーションは間主観性を前提にしていて、相手に伝えたいメッセージと、それ伝える適切な方針が必ずセットになっているが、前段で確認したとおり、Twitterは情報の乱雑さに一定の了解があるためである。それは送り手と受け手がそれぞれ独自にキュレーションの責任を負っていることによる面が大きい。つかもとゆうたミームはこのような「鳴き声コミュニケーション」の一種であって、このようなプラットフォームにおいては問題にならないんじゃないかな、知らんけど。そしてまあそこにTwitterの特性の象徴である(?)わたしが使用されることにはそこまで違和感が無い、鳴き声であって意味も特に感じないが。こんなコミュニケーションに時間使ってて大丈夫ですか?????

 わたしが懸念するのは、コミュニケーションが権力性を持つ場面に置いてである。「内輪ノリ」は公式な/オープンな/外部から招かれるべき客人が居る場合においては権力性を持つ。また、対面コミュニケーションやTwitter以外のコミュニケーションにおいてもである。前者はそのコミュニケーション手段への理解を強制するためであって、後者はそれ以前に並列処理の難しさから場を支配しうるためである。このような場では1つ1つのコミュニケーションが意図を問われうることに注意するべきである。これは社会的には当たり前なのだが全くもって所与ではないし、Twitterを主戦場にしていると切り替えが難しい。

 ことつかもとゆうたミームにおいて、わたしが京都を去ることによって、その外部性・ハイコンテクスト性が格段に上昇する。不適切な場で使用されることがないか注意されたい。老害しか居ない対面コミュニケーションや、縮小アカで使い続けるのは正直好きにしてくださいという感じ、新入生がいたりする場合は濃度に気をつけてくださいね。同時にそもそもつかもとゆうたミーム以外においても自身のコミュニケーションの特性を振り返ることには大きな意味があると思います。それではさらば京都。

このエリア140文字以内なんだね、実質twitterじゃん