1600年前の3人

画像1

私の家の近くには、帆立型古墳がある。
前方後円墳の、円じゃない部分がすごく短い、ドクロマーク💀のような古墳である。

画像2

ほぼ毎夜、私はその古墳の墳頂に続く階段40段を、10往復昇降している。
傍から見れば、雨乞いの儀式に見えてるかもしれないけどそうじゃない。
ヒップアップの為だ。

パーソナルトレーナーが言った、「ヒップアップには階段昇降と自転車が1番☆」に、忠実に従っている。

ずっと気になっていた、この古墳の被葬者のこと。

私が毎夜訪れているこの古墳には、どういう人が眠っていたんだろう。

この前の春の嵐が吹いた日、図書館に行って「発掘調査報告書」を借りた。
それによると、築造されたのは4世紀後半から5世紀初め。
中国の魏志倭人伝に卑弥呼の名前が現れるのは3世紀中頃、聖徳太子が生まれたのは6世紀中頃、と考えれば時代を捉えやすいか。(大雑把!)


発掘調査によれば、最初は円墳だったのが後から小さい方墳が付け足されたらしい。
円墳より前方後円墳の方が格上とされており、きっと被葬者は作ってる間もしくは縁者がその死後にちょっと遠慮気味に方墳を付け足したのかと思うと、限りなく奥ゆかしく可愛らしい。

埋葬施設は墳頂部から発見されており、地面から掘って木棺を埋め込んで周囲を粘土で固めた「粘土郭」「竪穴式」であったそうな。
棺は、東西にほぼ平行に二つ、各々頭部を東に向けていたと思われる。

歯も骨も木棺も残ってはいなかったけど、頭部が東を向いていたとする根拠は、棺が東側の方が高くなっていたこと、副葬品の刀の先が西を向いていたこと、だそうだ。

一つ目の棺は、割竹形木棺で刀と剣が一緒に入っており、すぐ足元に別の小さな木棺に短甲と冑があったことから、男性が埋葬されていたと思われる。

二つ目の棺は、組合せ式箱型木棺で、副葬品は様々、勾玉や刀剣・頭元には鏡・足元には櫛が入っていた。

珍妙なのは鏡の位置。

棺の一番東側と中央に配置されていた。
この事から、二つ目の棺には、鏡を頭頂に頂いて縦に二人埋葬されていたとする。
そして副葬品から女性であると思われる。

この二つの棺の被葬者は、どちらかが中央に位置する訳でもなく、ほぼ平行に並んでることから、密接な間柄であった。

…きっと殉葬だったんだろうな。

武具や鉄製品を一緒に埋葬してもらえる、そして円墳にちゃっかり付け足して前方後円墳一歩手前の帆立型古墳にしても許される、そんな権力を持った男性が亡くなり、その後本妻と第二夫人だかなんだか分からないけど、一つの棺に二人眠っているのは、女性二人同時に亡くなったからだろうな。  
最初から殉葬が決まってたのなら、木棺の様式が違うのはなんでかな。
女性陣の棺が組合せ式箱型木棺という、少し割竹形木棺よりも手が込んでるように見えるのは気のせいかな。
男性との死亡時期に時差があって、木棺の型が変わったのかな。

どっちにしろ、「縦二人」は嫌だな。
上に配置されても気を使うし、下にいるのも圧迫感感じるし。鏡で区切ってるつもりか知らんけど、あんま意味ないし。死んでるから別にいいけど、やっぱり一人ずつにして欲しい。

1600年ほど前にこの地で確かに生きていた3人を思うと、重力に逆らえなくなったお尻のためだけに階段昇降している事が申し訳なくなってきた。

これからもリスペクトを持って昇り降りしますね、と言い訳をしながら今夜も古墳に向かう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?