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スピード感(妄想する頭 思考する手)

堀江太郎は仕事で人事コンサル見習いのようなことをしている関係で、最近少し人材育成系の本を読みました。

昔はOJT(on the job training)で上手くいっていたのに、最近の若者はOJTだけでは育たないんだ。という議論や、専門性が高い業務やマネジメント力を上げるには云々、という議論がそこそこ流行っていて、いろんな教育理論が書かれた本が売られていますし、もっともらしいことが書いてあります。

昔と今との違いが何なのか、というのは大きなテーマでもありますし、今回のきっかけになった人材育成の話だけではなくてもう少し普遍的なものだと思うので、少し文字にしながら考えてみようと思い立った次第です。

まずはいろんな理論が氾濫している状況ですが、これは間違いなく、人類が豊かになって物事を考える時間が増えて、いろんな理論を考える職業を選択できる人が増えて、議論が深まり実験も多くされた結果、だと思います。

昔よりも人類が賢くなっているということかと思います。
(進歩ってやつですね)

もう一つの、「昔はこれでよかったのに」ですが、教育を受ける側の人間的な素養の部分と、受けた人が取り組む仕事の部分と、議論しなければいけない問題は二つに分かれると考えています。

素養の変化

まず、教育を受ける若手の性質についてです。(すごい私見です)

戦後の復興期世代やバブル世代など、昔のモーレツサラリーマンたちが育った時代は、会社や世の中は常に進歩して拡大していって良くなるものだ!という共通した認識があって、頑張ることに対して盲目的だったと思うし、先輩や上司の仕事は、実際に会社や世の中を良くすることができていた(様に見えた?)と、勝手に思っています。
会社が伸びていたり、新しいものを生み出していたりすれば、それはもう神様ですよね。人口が増加する局面で、作ったものは売れる世界でしたが。

翻って、今の若手から見た会社や世の中というのは、今後どうなるかいまいちわからなくて、何故かというとその仕組みを変えていくのは「自分がタッチしない大きなもの」という認識なんじゃないでしょうか。

ITの力でいろんなことが変わっていきますが、その主導権を日本がとれていない中で、そしてそんな諸先輩たちの姿を見ている中で、なんとなくその大きな流れを感じながら、やや斜陽を迎える国の中で育った感想なのではないでしょうか。

それでいて、その中で主体的に生きるにはどうしていいかもわからないし、生まれてこの方、苦手をなくして人と仲良くするようにして、なんとなく楽しく生きてきたけど、欧米のように変化に強くなるような教育も受けていないし、いざ働くとなると何となく沈んでいく全体の中で、どうしていいかわからない。そんな気がします。

とはいえ、世の中は進歩していて、そんなにお金がかからずに楽しめることはいっぱいあるし、それなりにエンジョイした人生を送れる。それに、Youtubeやインスタ見れば、同じような生き方で支持を集めているインフルエンサーなんかも流行っていて、がむしゃらに生きる必要なんてないんじゃないか、って感覚なんじゃないかなと思います。

実際、僕は旧帝国大学卒業しています。夏目漱石の時代なら、旧帝国大学出たら銀行家だったり官僚だったり実業家だったりになって、お国の発展のために働くのが当たり前の人たちだったはずですが、友人たちはそんな感覚を持っているのは2~3割くらいで、多くが「楽しく生きれればいいや」くらいの感覚で生きています。(昔の旧帝国大学への入学ハードルなんかと比べると、大きく差があるのかもしれませんが)

そんな層ですら、主体性をもって仕事に打ち込んでいるわけじゃないので、全体を見たらそりゃそうだよね、という気持ちになります。
(もちろん、起業家だったり官僚だったりエリートサラリーマンだったり弁護士だったり、世の中への貢献マインドが強い人もいます。日本の良心ですね)

世のスピード感

次に本題のスピード感です。

この「スピード感」というのは、資本主義によってもたらされたものだと考えていて、金融という仕組みが発達した成果だと思います。

というのは(何の専門書も読んだことがない私見ですが)金融という仕組みは、成功する可能性のある新しい取り組みにお金を出すことができる訳ですが、これがいろんな壁や境をどんどん乗り越えて、リスクも取りながら動き回っている結果、新しい取り組みにどんどんチャンスが回っていて勝者が常に変わり続けて、提供されるサービスも常にアップデートされて、生活が便利になり続ける仕組みだと思っています。

そこに近年のIT技術(このワードを使うしか説明できないあたりに自分のITリテラシーの低さを実感します)の進歩によって、仮説を立ててからの検証実証実装スピードが飛躍的に向上した結果、金融の効果で日々アップデートされる新しい取り組みをさらにスピードアップしたんじゃないでしょうか。

で、このIT技術の進化も、人がそう望む以上のスピード感で達成されるのは、金融という仕組みが背景にあるからに他ならないんじゃないでしょうか。(別に資本主義がいやってゆってる人ではないです)

すごくざっくりいうと、お金を儲けたいという欲望が、いろんな仕組みを回しに回して、世の中をアップデートしているんだと思いますが、このスピードが20年30年前とは比較にならないほど早くなってきていて、二次関数的なイメージで上がり続けている感覚です。(正しいのかは不明)

人間拡張

そんなタイミングで、「妄想する頭 思考する手」という本を流し読みしました。

ユーザーインターフェース研究者の方が、アイデアをどう生み出すか、アイデアをどう形にしていくかについて語った本だと思うのですが、クリエイティブな仕事には従事していないのでそこについては頭に引っかかるところは時になかったです。

この記事の中で述べていることとの関連で行くと「人間拡張」という概念が、個人的にホットでした。というのは、顕微鏡だったり補聴器だったり電話だったり、世の中にすでに浸透しきっているような技術でも、それは既にもともと人間が有していた肉体的知能的な能力を底上げしていて、機能を拡張された世界で生きている、というストーリーです。

「人間が技術を発明した、というのは真実の半分に過ぎない。より正確には、技術が人間を発明したと言うべきだろう」 SF作家アーサー・C・クラーク

本の中のキャッチーなワードを上で引用してみましたが、新しく生まれてくる人間が、「人間ってこんなことができるんだ」と認識するものの多くは技術が担っていて、現代の人間というものは動物的な能力よりも、技術が可能にした能力(ここでいう能力は一般的な能力ではなく、「できること」かもしれません)が非常に大きくて、進化と呼ぶにはスピード感がありすぎるし自分に根差していない。そういう意味で、蓄積された技術が現代の人間を生み出しているという見方もできるのかな、と素直に思いました。

上に述べたようなすでに浸透しきっている古くからあるものは、便利だけどなんかアナログで、仕組み自体もなんとなく全員が理解できているものなので、「人間拡張」というイメージがないのかもしれませんが、パワードスーツなんかで筋肉を補強し始めてしまったり、コナン君がかけているなんでも情報が出てくる眼鏡なんかをかけてしまった日には、それはもう「人間拡張」なんじゃないか、という気がしてきます。

技術の差によって、受け取りてのイメージが変わってきますが、パソコンですら人間拡張で、本来人間ができないスピードで計算ができるし、作成した文章や資料を、自分でスピーチするより確実に多くの人に見せることができるからです。

技術的に日々便利になることで、人間の機能が日々拡張されていて、仕事に関して言うと、それをうまく使いこなしてアウトプットを生み出し続けることが求められるようになっている。というのが、この概念から僕が連想したことでした。

世の中のスピード感の根源は何なのか

上では金融の話をしてしまいましたが、それはたぶん自分が文系で、技術よりも金融のほうが少しだけ身近だったからだと思います。いずれにせよ、「人間」に求められる機能は日進月歩、それに伴って、処理しなければいけない情報や習得しなければいけない「人間をアップグレード」させる様々な機器の使用方法が日々増え続けている、そして増え続けるものに対して、多くの人が受け身になってきていて、社会に対して主体性を失っているのではないでしょうか。

自分はどうなの、と聞かれると、なんだか怖いなというのが正直な感想で、怖いというのは出来ないというのとは少し違いますが、自分が不便さを感じる以上のスピードで不便が解決されて、よりスムーズに自分を拡張して物事を対処することを求められる。その大きな流れに対して、なんとなくの恐怖心を抱いているのかもしれません。

1匹の動物としては怖いけれど、人間という種の中で、誰かが勝手に妄想して実現させて人間を進歩(拡張)させてしまうが故に、種=社会の中で生き残るためには自分の拡張にも日々勤しまなければいけない。

資本主義の社会の中では、資本家以外の人は労働者で、自分のアウトプットによってお金を稼ぎ生活を成り立たせなければいけない中で、自分の拡張を怠ることは、市場での自分の価値を貶めることに繋がるが故に、ある種拡張のプレッシャーの中で、自分の拡張に勤しまなければいけないという状況にあるという理解も一つあるような気がします。

ただ、状況を正しく認識できていない場合には、おいぼれとして「両人差し指でWordしか使えないおじさん」のような扱いを将来受けざるを得ない状況に陥る可能性もあり、切実な問題です。

改めて冒頭に戻って人材育成の話をしたいと思います。

今まで述べてきたような状況を踏まえると、①スキルは日々磨き続けないと世の中に置いていかれる。それは今までよりもずっと早いスピード感で進めなければいけないし、怠った場合には今までよりもずっと早いスピードで距離をあけられてしまう。②社会に対するコミット(主体性)が欠けてしまうのには理由があって、最近の若者がダメなわけではなく、世の中の状況とその中でどう生きるかを考えさせるべき(企業的にはそこに選択の余地はなく、常に先頭集団で走り続けて技術革新の連続を耐えられるような状況に持っていくしかない)。という2点が重要になってくるんじゃないかなと考えます。(①と②は完全に分離できていない気もしますが心構えです!)

リスキリング、とか言われるのは①のような状況だから。②については、答えがよくわからないけれど、回転し続ける世界に突入していくのか、そこから少し軸を変えてニッチに生きていくのか、の選択肢はあっていいように思います。

昔の教育手法が時代遅れになっているのは、文章を書いてみて「なるほどな」と自分は実感していますが、世の中に公開してお役立ちになるのかは不安です。(そんなに見てる人もいないのですが)

勝手に思うこと(妄想してみる)

種として進化し続けてしまう状況に。。。と上で述べましたが、現代の人間は自由であるべきなので、世の中の進化のスピードに必ずしもついていく必要はなくて、ネット回線はADSLの速度まで!携帯電話はiphone5まで!授業でタブレットは使いません!という生き方や、貨幣制度反対!人間は地に根差して生きるものだ!1次産業以外は禁止!という生き方も、世の中のスピード感が余りにも早くなった場合には、選択するような仕組みがあってもいいように思いました。

別に僕が地に帰りたい!農業で自給自足だ!という訳ではないのですが、回転し続ける世界は、全員にとって心地よいものなのか、少しわからなくなった、というだけです。

焼き芋が食べたくなる季節ですが、意外と焼き芋買える場所少ないし、軽トラで回ってる焼き芋屋高いし、難しいですよね。

おわり。

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