小説『小説家』 第一話
第一話
『男は山の中に虎を喰らう。』
「あのね、物語ってのはこれでもう始まるわけ。ここから男の人生に沿って言葉にしていくだけ。
難しい言葉も誰かの小説の知識も、あったらいいかもしれないけど、ないほうがいいこともあるの、いや、その方が多いかもしれん。
凝った設定もどんでん返しもあったほうがいいかもしれない。でもないほうがいいこともあるの。
世界を変えるって言うけどさ、そりゃ男はみんな小さい頃に思ってたけどさ。世界を変えてやるって。
でもそれだったらさ、誰か一人でいいじゃない。
誰か一人の、その目から見える世界を変えられたら、世界を変えたってことでいいじゃないか。」
パタン、と自伝風日記、『海流厳一郎伝』を閉じる。本名は田中一郎。
このいたって平凡な名前の男は小説家である。
デビュー作の『森の奥』で大きな評価を受け、その後は文芸誌に連載を3年続け、本も二冊出した。
たくさんのお金があるわけではないが、細々と食っていけるだけの仕事はあった。
まあ、独身だからなんとでもなるのだ。
最悪、森の中に行って兎でも喰らえば良い。
さっきまで、次回作について、編集者と話し合っていたところだ。
編集の言葉に苛立ち、日記に思いの丈を書き殴ったのだ。直接はとても言えない。
話し合いは一郎の家で編集者と二人。
その編集者がなんだか”かかって”いて、なにか壮大な物語をはじめようと言い出したのだ。
そいつは編集者になったばかりの大卒野郎、原田。
東大らしいがそんなもん知ったこっちゃない。
昔からのファンらしいが知ったこっちゃない。困ったやつだ。ハリーポッターみたいな物語を書けるとでも思ってるのか。
原田が言う。
「先生にはもっと壮大な物語が描けると思うんですよ。重厚な、シリアスな、世界を震わせるような物語が。」
ダメだ。全然わかっていない。
小さな世界の中で、小さく変わっていく物語が書きたいのだ。
「あのなぁ、おれにそんなもの書けるはずがないだろう。そういうのは、そういう人が書くんだよ。もっと、丁寧な生活をしてるような、完全に世界と分離できるような人が」
食い下がる原田。
「でも先生。僕は先生にもっと評価されて欲しいんです。悔しいんすよ。こんなに綺麗な文章を書く人が、まだあまり知られてないことが。先生の世界観は世界に通用すると思うんです。設定を練って、”重い”ものを作りましょうよぉ!」
嫌だけど嫌じゃない。褒められて悪い気はしない。
そうだ、こいつは悪い奴じゃないんだ。むしろかわいいやつだ。だからやっかいなのだ。
そうして、その日は「考えておく」と返事をして原田は帰った。
そして書き殴ったのだ。
一郎はこういう、腹の底から出てきた言葉を日記に書くようにしている。それは心から出たもので、自分が捉えているよりも本当の自分であることが多い。そして、そういう言葉の方が、”本当の”自分よりも魅力的であることが多いのだ。
「それが俺の小説の根源で、結局、俺の小説は俺の範囲外で進んでいくんだ。」と、書いて締めた。
7作目が最初に出来上がったJ.K.ローリングとは根本から違うのだ。
とはいえ、次回作については本当にやばい。
そろそろプロットを編集部に提出しなくてはいけない。小説家でいられなくなってしまう。
一郎はおもむろに立ち上がり外に出た。
近くの公園に行ってみる。
三時過ぎで幼稚園児や小学生がたくさん遊んでいて、屋根のあるベンチのところには母親たちが固まっている。
一郎は真っ直ぐに砂場に入る。
しばらくぼーっとして、よしっと気合を入れて砂山を作り始めた。
何の形にするでもなく、ただただ砂山を高くしていく。
初めのうちはどんどん高くなるが、だんだんとその速度は落ちる。
上に砂をかけても横に流れていってしまう。
それでも着実に周りに砂は溜まり、砂山は育っていく。
一郎の膝よりは高くなっただろうか。
小学生が集まってきた。
「何してんの?」
よくこんな不審者に話しかけるな。母親よ、止めろよ。
「砂山よ。高くするんだ」
そして黙々と砂をかけ続ける。
「えー、なにそれ。僕もやっていい?」
「おう、いいぞ」
知らぬ間に砂場砂山造り一郎隊が出来上がってしまった。
しばらくすると一人の男の子が水を汲んできてくれた。
ありがたい、これでもっと高くなる。
しばらくすると、また別の男の子がふざけて山を崩そうとした。側面を足で踏みつけたのだ。
一郎はただただ砂をかけ続けた。
そうすると水を汲んできてくれた男の子がその子を叱っていた。
ふむ、こうなるのか。
心はなにか静かだった。
目の前で起こることをただ落ち着いて見ていることができた。
砂山は愛着は沸いていたが、同時にどうなってもよかった。
座ったら目の前に山の頂上がくるぐらいにはなった。
2時間近く経っている。
平日の昼間に小学生と砂山を作っている男を、母親たちはどう思っているのだろう。
そろそろ空が赤らんできたので、母親たちは帰り支度を始めてチラチラとこっちを見ている。
「そろそろ、帰るよー。遊んでくれてありがとうってい言いなさい」
案外、感謝されていた。
これは驚いた。
子供たちが帰って一郎は公園に一人。
オレンジの空は紫に変わっていく。
目の前には大きな砂山。
その時、この一節が浮かんできた。
『トンネルの中に住んで40年。そろそろ髭を剃りたい。』
心の中に感動が広がった。
ああ、これこれ、この感覚。
始まりはいつもこうだった。
家に向かって走った。
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続きは以下、
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