箴言の第九章について
ここで一旦一つの流れがゴール
僕の記事の第九章はこちら!
できれば、見比べながら読んでください!
ここに明らかな、知恵と愚かさの対比がある。
ちなみに箴言の知恵と愚かさは、
Madam Wisdom, Dame Folly(愚かさ)と表現される。
どちらも原語で女性形の単語だからだが、どちらと行くのか、というのが箴言の一貫したテーマなのだ。
そして最後(31章)には知恵と結婚する。その道がどんなに祝福された道か、期待していてほしい。
構造としては
1−9節と13-18節が対比されている
4節と16節は一言一句一致するのだ。
知恵は
自分の家を建て、7つの柱を立てる
豪勢な食卓を整え、
使いを送り、町の高いところで呼びかける
『パンを食べ、ぶどう酒を飲みなさい。
自分のわざを捨てて命を得なさい。』
愚かさは
騒がしく、思慮がなく、何も知らない
自分の家の前に座って招く
自ら、町の高いところで道ゆく人に声をかける
『盗んだ水を飲み、隠れてパンを食べよう。』
そこには死がある。
7つの柱は黙示録の7つの教会を連想させるが、何を意味するのだろう。
知恵は、聖餐の場に招いている。
ここに、キリストが来た後の新しい時代の恵みが描かれる。
キリストと結ばれる者は、知恵と一体となり、
慎み深く、悟り、知識を得る。
悪と結ばれる者は、愚かさと一体で、
騒がしく、思慮がなく、何も知らない。知らずに死に導かれていく。
知恵であるキリストは聖餐の恵みを用意して、使いを送り、罪人たちを招く。
そして愚かさは、高い所に座し(旧約の偶像礼拝は高き所)自ら死に招く。
そして1−9節と13-18節の対比の間には、周りの人の取り扱いが語られる。
それを嘲ける者や悪人を責め教えようとしても憎まれるだけであること。
→ノアは真実を伝えたが嘲られた。
むしろ知恵と共にある者を責め教えなさい、と。
→知恵あるものは、責められても、愛を悟り受け入れる。教訓からますます深まる。エステルはモルデカイに責められた時に覚悟を決めた。
そしてここで、
知恵と悟りの本質が明かされる。
「主を恐れることは知恵のはじめ」
(これは1章6節の「知識のはじめである」と矛盾しない。知恵が与えられた時に初めに得るのが「主を恐れる」という知識だ。知恵から知識を得るということが前の章に描かれる)
そして、「聖なる方を知ることが悟ること」とある。
主を恐れて、自分の罪を知り、聖なる方、救ってくださる方を知る。
知恵→知識→悟り、の流れがわかるのだ。
知恵を得るなら命を得る。ここに明らかに救いが描かれる。
自分のために得ることになる
→自分の泉を外に撒き散らすな、と一貫する。他の人の救いは他の人のものだ。僕らは祈るが救われるのは神である。
嘲けるものはそのものだけが、責めを負う
→エゼキエル18:2には 「罪を犯した者はその者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負い目めがない。」とある。
責められるのはその人(罪の結果は引き継がれる?)
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第九章では、
知恵が招くキリストの救い
知恵と悟りの本質
救いはあなたのため、責めは嘲るものだけのため
が教えている。
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