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番外:勅使川原三郎版「羅生門」の感想

 僕は、転職をしている。生活というものに困ってもいるが、困窮しているともいわないので羅生門の下人にくらべるとのんきなものだと自分ながら思い苦笑したくなる。面接帰り、ふと東京芸術劇場に立ち寄った。なにか引き寄せられるように劇場に入ると30分遅れではあるものの劇場の最終公演を鑑賞することができた。僕はスタッフに導かれる。
「いいですか、お静かに願いますからね」
と、言われたあとですまじい速さで、席へと誘導された。
 すこし焦って椅子にひざをつよくぶったもののなんとか席につくことができた。舞台では下人が老婆と下人のシーンであった。小学生の頃、このシーンを読んでふるふるとふるえつつ眠れない夜をすごしたあのシーン。
「この髪を抜いてな・・・・・』と声が響く、私はさながら下人と老婆をながめる透明人間、老婆のセリフひとつひとつが背中をひっかくように伝わる、それに対して下人のセリフ『では、己(おのれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨(うら)むまいな。己をそうしなければ、餓死をするからだなのだ。』とのセリフは下人の不安と覚悟がにじみあふれていて、息をのんだ。
 それが終わると照明と音楽、肉体で生と死を感じるパフォーマンスがあった。積み重なる死と生きる不安や葛藤、陰と陽・死と生を感じるもので、ふと学生時代に教科書で読んで感じたあの疑問や違和感が自分なりにが解決したようなきがした。その疑問と言うのは【下人の行方(ゆくえ)は、誰も知らない】のところである。え、そんなところひっかかるなんてバカじゃないかしら?なんて思われるかもしれないが、あの頃の自分はそこを線でひいては、授業で音読するときにふといつも考えてしまう文章だった。というのも誰も知らないことなのに書かれているかということだった、そりゃあそういうフィクションだといえばそれまでしかないし、祖父にも叱られた。そんなところ疑問に思うのはアホウだと。それでも、舞台をみてからあれはなにかしらありつつも下人自身があれから生き延びて、なにかしらの記録を残したからこそ成り立つ話なのではということでした。あのあとどこかへ走り去った下人は自分が犯した罪を背負いながらも罰として自分の生を抱えいきているのではないかと個人的な感想ながらそう感じさせてくれた舞台でした。ちなみに、ふと一瞬でしたが地獄変や蜘蛛の糸のようなイメージも鑑賞していて浮かびました。

20218月8日 (日曜日)
辻島 治

見出し写真の絵(作画)・作文/辻島 治

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